天児屋根命による神ながらの道と成功法則

「天津祝詞の太祝詞」

真実の 「天津祝詞の太祝詞」を求めて


「大祓詞」自体を「天津祝詞の太祝詞」とする本居宣長(のりなが)説


天津(あまつ)祝詞(のりと)の太(ふと)祝詞(のりと)という文言は、有名な「大祓(おおはらえ)詞(し)」に出てくる言葉です。

まずは、そのくだりを実際の「大祓(おおはらえ)詞(し)」から見てみましょう。すこし長いですが引用します。

画像の説明
画像の説明

実は、この大祓詞は、神社神道の真髄を表したものと言ってよく、日本国建国の理念と神道の最も中核をなす「祓い」の重要さをよく表現しています。

そこには、「いかにして祓いがなされていくか」が物語仕立ての中で神秘的に語られています。

神道のエッセンスは「大祓詞」にありますが、では、この大祓詞のエッセンスはなんでしょうか?

それは、この中に出てくる「天津(あまつ)祝詞(のりと)の太(ふと)祝詞」でしょう。

だって、その「太(ふと)祝詞」を唱えれば「すべての罪けがれが消える」という夢のような言霊(ことだま)だからです。

それにしても、「すべての罪けがれが消える」なんていう、そんな便利な万能の言霊の祝詞などほんとうにあるのでしょうか?

それで、これを真に受ける人々、ことに国学がにわかに盛んになった江戸時代の国学者によって、「天津(あまつ)祝詞(のりと)の太(ふと)祝詞」が真剣に探究されるようになったのです。

それ以来、いろんな人によって天津(あまつ)祝詞(のりと)の太(ふと)祝詞の探求がはじまったわけですが、何をもって天津祝詞の太祝詞とするかついては、二説に分かれます。

一説は、かの有名な国学者、本居宣長(もとおりのりなが)がその代表格で、彼は「大祓詞後釈」において天津祝詞の太祝詞事は大祓詞自体のことなのだという見解をとっています。

宣長の師である賀茂真淵(かものまぶち)も「祝詞考」のなかで同じ意見を述べています。

明治以後に成立した国家神道の下では、神社を管轄していたのは内務省です。

その内務省は、天津祝詞の太祝詞事は大祓詞自体のことだとする真淵・宣長説を採用していました。

戦後、神道指令の発令によって国家の庇護にあった神社神道は解体され、新たに全国の神社を包括する神社本庁が設立されて今日に至っていますが、本庁では、内務省の見解の延長で「天津祝詞の太祝詞事は大祓詞自体のことだとする」真淵・宣長説を踏襲しています。

ちょっと奇妙だと思うのは、神社本庁の指導では、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」の前段と「かく宣らば」の後段の間に一拍を置く、という点です。

天津祝詞の太祝詞事は大祓詞自体なら、なにかそこにあるかのように一拍を置くということがなぜ必要なのか、と思うのです。

大祓詞自体が天津祝詞の太祝詞事ならそこに一拍をおくことなど無用なはずです。

ついでに、この説をとる他の学者のことも記しておきます。

まず国学院大学の故小野祖教教授の説では、現存する「天津祝詞」の表現のある祝詞四種の詞型を分析した結果として、大祓詞にも秘詞の類のものは大祓詞作成時にはなかったとしています。

ただし、中臣祓詞には、中臣氏家伝の秘詞があったかもしれない、という一種の妥協説を採っています。「神道の基礎知識と基礎問題」

なかなかおもしろい、うがっている、とわたしは個人的には思います。

「大祓詞作成時にはなかった」というのがミソだと思うからです。

もう一人、皇学館大学の祝詞学の青木紀元教授もその著「祝詞全評釈」のなかで「天津祝詞の太祝詞として何か神秘的な言葉があったと推測して、呪文や作為された文句をもってそれにあたることが早くから行われているが、これを裏付ける証拠はない」として一蹴(いっしゅう)しておられます。

わたしの率直な感想を申し上げます。

やはり、この説にはどうしても腑に落ちないところが残ります。

この「この大祓詞自体が天津祝詞」という宣長説は、たしかに、文献学的、合理的説明としては一応の整合性があり正しいようにも思えます。

しかし、問題は、この仮説が正しいかどうかはその実証性、その効能にある、と思います。

だって、これこそ、学問・科学の原則ではないですか。

説だけではあくまでも仮説止まりなのです。

口では何とでも言えるということです。

つまり、もし「この大祓詞自体が天津祝詞」であるなら、そして、天津祝詞の太祝詞は「罪という罪はなくなり祓い清められる」という効能ないし実証という結果をもたらすものなのであるなら、当然、大祓詞自体を唱えればそういう結果が、何らかの形で、大いに知れ渡り、証明されているはずです。

しかし、そうした話はまず聞いたことはありません。

自己暗示による「心身の爽快さ」位はあるかもしれません。

それくらいなら、エミール・クーエの自己暗示、就寝前の「これから毎日あらゆる点でいっそうよくなる」のほうがよほど効き目はありそうです。

もし一切の罪けがれおよびそこから招来されるマガゴトが消滅する、といった、夢のような言霊であるのなら、「大祓詞」の威力はとっくの昔に、そういうものとして証明され、知れ渡っていたことでしょう。

憑依霊の除霊にこの大祓詞を唱えることをある神職から教えられてやった人の話を読んだことがありますが、結局、「効果がない」という結論でした。

この説に対するわたしの疑問点も、やはり、ずばり、その実証性、そこにあります。

「その木の善し悪しはその実によってしるべし」ではないでしょうか。


「秘伝の天津祝詞の太祝詞」はあったとする平田篤胤(あつたね)説

さて、国学者の中には、「秘伝の天津祝詞の太祝詞」は間違いなくあった、と考えていた人は、実は、たいへん多いのです。

そりゃそうでしょう。

宣長説を聞いても、すっかりは腑に落ちず、なんとなくもどかしく思っておられる人は多かったと思います。

第一に、大祓詞自体が天津祝詞の太祝詞だ、と考える宣長説が変だと思えるのは、後段で「かく宣らば」と言っているので、「かく宣らば」の「かく」に引っかかるからです。

前段の内容に「天津祝詞の太祝詞」に該当するものは見当たらないからです。

前段は建国の次第を神話的に述べた後に、人々が生きていく上には天津罪・国津罪がどうしても出てくるので、これを祓う儀式として天津金木や天津菅麻(すがそ)を用意し「天津祝詞の太祝詞」を宣れ、と言っているだけです。

「かく宣らば」の「かく」は、その前段を指すと、普通は考えます。

後段は、その「宣った」結果、どのようにして罪・けがれが祓われていくかを述べているだけだからです。

ですから、いやそんなはずはない、我が国には、きっと、神代以来の「天津祝詞の太祝詞」にあたるドンピシャの原典の神言ないし言霊があったはずだ、と考える人が後を絶たないのです。

その代表格が平田篤胤(ひらたあつたね)でした。

篤胤は、その著「古史伝」の中で、

「皇祖の大神(天照大御神)があたえた<天津祝詞の太祝詞>という尊秘な詞言があったが、これは大変貴重なものなので、延喜式には載せなかった。おそらく、中臣家にこれを伝えたものであろう

と述べています。

すでに、宣長説のところで申しあげましたように、小野祖教教授も「天津祝詞の太祝詞」の原型は、「中臣氏に家伝の秘詞として伝わっていたかもしれない」としています。

宣長没後の門弟でやはり「天津祝詞の太祝詞はあった」と主張した人に伴信友という国学者がいます。

「中臣祓詞要解」の中で、「天津祝詞の太祝詞は、天津祝詞の太祝詞事とは別にあったが、今は伝わっていない」としています。

さらに特筆すべき先生として、国学院大学の御巫(みかんなぎ)清勇教授をご紹介したいと思います。

この先生の著「延喜式祝詞教本」のなかの「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」の解説のところで、

「太祝詞事は、天津祝詞の補足語で、最も神聖なものとして祝詞を称えていう。

古事記に、<天児屋根命、フトノリト、言祝(ことほ)ぎ白す、とあり、高天原で天児屋根によって宣られと信ぜられ、その所伝と伝承する行事をもとに、中臣の氏人によって述作されたもので、・・・・大中臣によって宣られたが、今は伝わらない」

と述べておられます。

そして、大祓の行事の時には、大祓詞は卜部氏が読み、従って、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」は卜部氏が言い、肝心の「天津祝詞の太祝詞」自体だけは中臣氏が奏したはずだ、との見解を採っておられます。

その根拠は、この祝詞が、もともと天児屋根伝来の「中臣家家伝のもの」だからだというのです。

ですので、この「もっとも神聖な祓いの神言」を伝承し唱える資格者として、中臣氏は朝廷祭祀の中で独自の地位を占めていたといってよいでしょう。

それはその通りで、中臣氏の前身、中津・弓前一族であった九州時代からの大君に仕える祭祀氏族としての伝統であったからです。

だからこそ、この祝詞は、別名、「中臣祓詞」「中臣祭文」などと称せられてきたわけです。

これを中臣氏の横暴ととらえる大方の非難は、この間の事情をよくお分かりでない人の言うことで、その非難は当たらない、ということになります。

例えば、かつて、国学院大学の故上田賢治教授が「公の為の祭文や祓詞に<中臣祓詞>などと氏族名を冠していうのは僭越に過ぎる」と非難しておられました。

私は、その発言を、じかに、先生の授業でお聞きしましたが、このようにお考えになる方は多いと思います。

でも、それには深いわけがあったのです。

そのわけは、いつかお話しします。

話を篤胤にもどします。

さて、「天津祝詞の太祝詞」を求めて「大祓詞」を深く研究していった篤胤にとって、そこに入るべき言葉は「祓いの言葉」以外はありえない、と、まず着想したはずです。

そしてその着想は、確かに的を得ています。

天津祝詞を唱えれば、一切の罪という罪、けがれというけがれ
が祓われる、となれば、「天津祝詞の太祝詞」とは、「祓いのための言葉」以外にはありえない、と考えるのは当然だからです。

そこで篤胤は、その「祓いの祝詞」を探し求めて、伯家神道、伊勢神道、吉田神道、垂加神道をはじめ、各有力神社に伝わるありとあらゆる文献を調査していったようです。

そして、ついに、現在「禊祓詞(みそぎはらいし)」として知られる「祓い言葉」にたどり着くのです。

その「禊祓詞」とは次のようなものです。

高天原に神づまります

カムロキ・カムロミの命(みこと)もちて

皇(すめ)御親(みおや)イザナキの命

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おと)の

阿波(あは)岐(ぎ)原(はら)にみそぎ祓い給う時になりませる

祓え戸の大神たちもろもろの枉事・罪・けがれを祓いたまえ

清めたまえと申すことの由(よし)を天津神・国津神八百万の

神たちと共に天の斑(ふち)駒(こま)の耳ふりたててきこしめせ

と恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す


もう、お気づきになったかもしれませんが、この「禊祓詞」は、現在、すべての神社で修祓(しゅばつ)の時に使っている「祓詞(はらいし)」の元の形です。

これをよく見ると、現行の「祓詞」はこの「禊祓詞」の縮小版だということがわかります。

元神社本庁の教学部長をされていた岡田米夫という方が、小冊子「大祓詞の解釈と信仰」の中でそのことをはっきりと述べておられます。

このことは少しでも「祓詞」を勉強された方なら誰でも知っているとおもいますが、念のため、現在使用されている「祓詞」も、あわせて、参考までに、ここにのせておきますので、比べてみてください。


掛けまくも畏(かしこ)きイザナキの大神

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の

小戸(おと)の阿波(あは)岐(ぎ)原(はら)に

みそぎ祓いし時になりませる祓え戸の大神たち

もろもろのまがごと罪けがれあらむをば

祓え給い清め給えと白(もう)すことを聞食(きこ)し

めせと恐しこみ恐しこみも白(もう)す


なお、篤胤が「天津祝詞」として世に出した「禊祓詞」は現在、ほとんどの教派神道の教団で使われているようです。

大本教やそこから別れた世界救世教他の教派神道では、特にこの「禊祓詞」を独立して「天津祝詞の太祝詞」として御神前で唱えているそうです。

宣長説・篤胤説以外の「天津祝詞の太祝詞」

大祓詞を奏上する時に、「かく宣らば」の次に、何も入れる必要がないという宣長説、次に、多くの教派神道に見るように、「禊祓詞」を入れる篤胤説をこれまで見てきましたが、その他に、そこに入れるべき言霊を編み出してきたいろんな説の歴史があります。

これにも少し触れておかなくてはならないでしょう。

そこで、このことに触れる前に、「天津祝詞の太祝詞」説についての私の基本スタンス、私の考えをこの辺で述べておきたい誘惑に駆られています。

この人、いきなり、何を言っているのか、と或いはいぶかしく思われるかもしれませんが、まあ、お聞きください。

というのも、結論を申してしまえば、宣長説も正しいし、篤胤説も正しいし、篤胤説の縮小版である現行「祓詞」も、ある意味では、すべて「天津祝詞の太祝詞」である、ということを、実は、私は知っているからです。

何故それが分かるか、と申しますと、その「天津祝詞の太祝詞」の神代時代に伝わった原型の、元の「言葉」を知っているからです。

神代時代とは言っても、実際には、弥生時代のことです。

その言葉は倭人天族が使っていた古代語から出来ています。

「大祓詞」や「禊祓詞」や現行「祓詞」のような奈良時代に成立した日本語とは、似ているところはあるにはありますが、やはり、かなり違っています。

ですから、「大祓詞」や「禊祓詞」や現行「祓詞」は、「ある意味では」という条件付きの「天津祝詞の太祝詞」なのだ、と申し上げたのです。

明かしてしまいましょう。

こういうことです。

「大祓詞」や「禊祓詞」や現行「祓詞」は、あくまで、古代語の「天津祝詞の太祝詞」の原語を、奈良時代に出来上がった日本語に翻訳し、しかもです、同じく奈良時代に出来上がった記紀の神話をベースに翻案した「天津祝詞の太祝詞」であった、というのが真相です。

これが、「天津祝詞の太祝詞」に関する真実です。

その意味では、<秘伝の天津祝詞の太祝詞はあった>というのは、実は本当のことなのです。

しかしそれは、今日のこの時まで明かされることはありませんでした。

そのことを明かす時が、とうとうやってきました。

戦後七十年近い今、やっとその機が熟したと思っています。

その「天津祝詞の太祝詞」は、どこにあったか。

はじめは、香取神宮の弓前一族が、飛鳥時代までは口伝で伝えていましたが、漢字と渡来人を中心に新しい、今の日本語が少しずつ出来上がった頃、香取の弓前値名(ゆまあてな)という人物が、召喚されて都に登り、独特の漢字仮名で天津祝詞の太祝詞のある「弓前文書」を文字化したのです。

この「弓前文書」を受け継ぐ者を、「弓前和(ゆまに)」と言いましたが、奈良時代、称徳帝の時に、弓前和を召して「藤原今和(いまに)」の称号を与え、朝廷の大学頭に任命しました。

藤原今和は、九条今野家でもあり、下って、徳川三代家光の時、故あって下野し、但馬(たじま)池田氏を名乗るようになります。

それまで、天津祝詞の太祝詞のある「弓前文書」はそこにあったのですが、文書一切は京都所司代の預かるところとなります。

そして、幕府が崩壊し明治の世となって、紆余曲折を得て、ようやく弓前(藤原今和)六七代当主、池田秀穂先生に受け継がれることになりました。

その文書の解読を池田先生がはじめられたのが昭和五八年、国家神道がなくなって三八年後です。

この時を得なければ、この文書は世に出てはいけなかったのです。

何故かはお分かりですよね。

終戦以前にこの文書が世に出ていたら、この文書はこの世から消え、この世から抹殺されていたでしょう。

記紀に抵触するものがあるからです。

そうして、貴重な、国宝的ともいえる弥生語という国語学上極めて貴重な言語の記録が消え、「天津祝詞の太祝詞の原語」も消え、国史の起源についての貴重な記録も消えていたことでしょう。

また脱線してしまいました。

戻ります。

とにかく、「大祓詞」や「禊祓詞」や現行「祓詞」もすべて、もともとのオリジナルの「天津祝詞の太祝詞」のバリエイションだということが、その元を知っていればよく分かるのです。

誰でもわかります。

では、何故、ここで、そんな秘密をあかしたのか。

「天津祝詞の太祝詞」に入るべき言葉は、基本的に、篤胤が見抜いたように、あくまでも「祓いのための言葉」でした。

またそうでなければならないことは、火を見るより明らかなことです。

そして、現に、神から降ろされた原語の「天津祝詞の太祝詞」も、「祓いのための言葉」で出来ています。

それを申し上げてから、これから見ていこうとしている宣長説・篤胤説以外の「天津祝詞の太祝詞」説を見ていけば理解が早いと判断したわけです。

その方が分かりが早いのではないかと思ったのです。

ですから、これから取り上げる世に流布している説は「天津祝詞の太祝詞」の資格を持つかどうかがすぐ判断できるというわけです。 

以上のような前提で、これから、早速、宣長説・篤胤説以外の「天津祝詞の太祝詞」説を見ていきたいと思います。

「トホカミエミタメ」という説

天津祝詞の宣長説と篤胤説以外でしばしば挙げられる候補に「トホカミエミタメ」という言葉があります。

篤胤に私淑した国学者に鈴木重胤という人物がいます。

どういう経緯でそう考えたのかわかりませんが、彼は、「吐普加身依身多女(トホカミヱヒタメ)」を天津祓とし、「寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリゴンダケン)」を国津祓、「祓ひ玉ひ清め給ふ(ハラヒタマヒキヨメタマフ)」を蒼生(あおくさ)祓 として、この三つを「三種の祓詞」と称し、これを彼は「天津祝詞の太祝詞」としています。

トホカミエミタメは、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が禊ぎをしたとき実際に唱えたとされる、「遠つ神、恵み賜へ」に由来するというのですが、しかし、これはこの神話の由来を知る者にとっては、あり得ない話です。

「イザナギ」(itsanaki)という言葉の由来を「弓前文書の中の神文」で知っている者にとっては、イザナギ・イザナミ神話もイザナキの禊ぎ祓え神話も、奈良時代の記紀神話編纂者の創作であることを知っているからです。

少しだけ申し上げれば、その中に出てくる「イツァヨミ、イツァナキミ」という言葉は、宇宙の成り立ちの中の最終段階である生物の発生のところに出てくる言葉で、それぞれ「イツァヨミ」は「雌雄増殖の生態」、「イツァナキミ」は、「生命の有限の個別現象が出現した」意味です。

これでは当時の奈良時代の人々でもわかりずらいので、これを、イツァナキ・イツァナミの男女・雌雄の神としたのは、実に、奈良時代の記紀神話の編纂者だということです。

ありえない、と申し上げたのはそういう意味からです。

これからは、出来るだけ、ざっくばらんに話しましょう。

私もおそらく読者の皆さんの多くの方々も、そうだとおもいますが、学術的に記述されることはあまり歓迎されないでしょう。

あの学者先生特有の、まわりくどい、もったいぶった、小難しい言い回しや語彙や専門用語をやたら、ちりばめた、人を煙に巻くような論理的思考とやらはお呼びではないでしょう。

ほんとうにはよくわかっていない人が、わかっていないことを、さもわかっているかのように言うときに、こういう物言いになるのです。

威厳を保ちたいのでしょうね。

元々わかっていないから学者(学ぶ者)をやっているわけなので、もっとシンプルで率直なほうがいいのです。

ズバリ行きたいですよね。

話をもどします。

まず、要するに、「天津祝詞は大祓詞そのもの」という宣長説では、どうも今一つ釈然としない、物足りない、と思う人たちがいたわけです。

そこで、祓いの言葉として古来(とはいっても奈良時代以来の日本語ですが)から伝わる「禊祓詞」を探し求めてついに発見した篤胤の天津祝詞が出てきました。

まあ、これでもいいのですが、これだと、結局は「祓詞」と同じものだし、これを大祓詞の中で唱えるのもおかしいかも、と考えてしまう人が、また出てきたのです。

もっとも、いわゆる教派神道のおおくの教団では、これをやっているわけですが、これも、今一つ釈然としない人々も出てきたというわけです。

そこで、これこそ、あの大祓詞の中で唱えるべき「天津祝詞の太祝詞」ではないか、と考え出された文言ないし呪言が出てきました。

その一つが、鈴木重胤が言う「トホカミエヒタメ」といわれる言葉です。

もっとも、「トホカミヱヒタメ」という言葉は、平安末期の「江家次第」という本にも出ている古い言葉ではあります。

亀トには、亀甲そのものを忌火にくべて裂け目を出す時に、その亀甲の上か裏側に、マチガタといわれる縦横のスジの刻み目をいれます。

そのスジの部分に「ト・ホ・カミ・エミ・タメ」の名称がつい ている。

そして、「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて占う。

その五つの線を焼いて、表にあらわれたひび割れの形で吉凶を判断します。

これを太占(ふとまに)と言います。

その亀甲を火にくべて亀裂がはいるまでのあいだ、例の「トホカミエミタメ」の呪言を百千辺も唱えつづけるというのです。

結局、神の御心を知る為の言葉として、この言葉が唱えられていたのでしょう。
 
この説は、はじめ、<三種の祓詞>と称し、次の三つを、「天津祝詞の大祝詞」としていました。

「吐普加身依身多女(トホカミヱヒタメ)」は天津祓の「遠祖神よ恵みを下さい、或いは、笑み給え」の意味。

「寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリゴンダケン)」は国津祓の「天地万物」の意 味。

「祓ひ玉ひ清め給ふ(ハラヒタマヒキヨメタマフ)」は蒼生(あおくさ)祓 の三つです。

やがて、中世の吉田神道が、こりゃおかしいぞ、と考えた。

寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリゴンダケンは、周易八卦思想の<乾(けん)兌(だ)離(り)震(しん)巽(そん)坎(かん)艮(ごん)坤(こん)>であって、日本の大和言葉ではないじゃないか、と考え、国津祓いの部分を削除してしまった。

それで三種の祓い詞ではなくなった。 

重胤の場合は、なにを考えていたのか、そのままで変更していません。

一方では、『トホカミヱヒタメ』だけでも、トホ=刀、カミ=鏡、タメ=玉 で「三種の神器」を示すので「三種の祓い詞」としています。

「トホカミヱヒタメ」を三回繰り返し、これに「祓ひ玉ひ清め給ふ」を唱える「三種の祓詞」にも変容したりもしています。

とにかく、こうした珍説を立てて、平田篤胤の「天津祝詞」と共に世に広められるようになりました。

しかし、トホが刀で、カミが鏡、タメが玉だなどという言語上の根拠は、実は、どこにもないのです。

それを「三種の神器」を示すので「三種の祓い詞」とするとは飛躍もいいところです。

牽強付会(こじつけ)ここに極まれり、といったところでしょう。

また、「トホカミエミタメ」を陰陽五行説から、ト=水、ホ=火、カミ=木、エミ=金、タメ=土と当てはめる説明もありますが、これもまた根拠がありません。

それから、トホカミエミタメ八神は、『宮中ご八神の大神さま』をあらわすという説もあります。

この説に込められた気持ちは、ただ宇宙神的、地球神的神様を唱えてその威力に頼めば、どんな罪けがれでも祓って下さる、という発想から作られた説でしかないと思います。

なかには、こんなのもあります。

トホカミエミタメ

甲(きのえ)乙(きのと)
丙(ひのえ)丁(ひのと)
戊(つちのえ)己(つちのと)
庚(かのえ)辛(かのと)
壬(みずのえ)癸(みずのと)

祓ひ給ひ 清め出給ふ
(はらひたまひ きよめでたまふ)

トホカミエミタメ

子 丑 寅 卯 辰 巳
午 未 申 酉 戌 亥

祓ひ給ひ 清め出給ふ

トホカミエミタメ

乾(けん)兌(だ)
離(り)震(しん)
巽(そん)坎(かん)
艮(ごん)坤(こん)

祓ひ給ひ 清め出給ふ

とにかく、原理的なものを持ってきて権威づけ、それを「天津祝詞」にしているだけです。

これを繰り返すのですね。

これを大真面目に「天津祝詞」と信じてやっておられるわけです。

とにかく、「トホカミエミタメ」という言葉には、亀卜の時に唱える言葉だという以上の情報はなく、何故この言葉が「天津罪・国津罪の一切」を祓う「祓いのための言霊」たり得るのか、はなはだ疑問、という外はありません。

そして、決定的なものは、やはり、宣長説のところでも申し上げたように、説や能書きではなく、ずばり実証性でしょう。

説や能書きでは、あくまで、仮説ですからね。

最後にものをいうのは、コレです。

それが、真の科学であり学問であり真理です。

「その木の善し悪しはその実によって知られる」のです。

「先代旧事本紀」の中の「一二三の祝詞」

この「先代旧事本紀」について、宣長は『うひ山ふみ』の中で次のように言っています。

「道を知るためには第一に『古事記』である。神典は、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』を昔から、三部の書と言って、その中でも研究したり読んだりするのは『日本書紀』が中心で、次が『先代旧事本紀』、これは聖徳太子の御撰であるとして尊び、『古事記』はあまり重視されず、特にこの本に注目する人もいなかった。

それが少し前からやっと『先代旧事本紀』は偽書だということになり、『古事記』が注目されるようになった。

これはまったく私の先生・賀茂真淵によって学問が開けてきたおかげである。」

ようするに、宣長は、旧事本紀を、偽りの書、だと結論付けています。

少し前の水戸の光圀も、「大日本史」編纂時に、嘘が多い、として偽書と断じました。

旧事記が偽書だと暴かれたのは、意外と遅く、近世の江戸に入ってからのことだったんです。

それまでは、長い間、真書だと思われていたんですね。

『旧事本紀』は神代から推古朝までの事跡を全十巻に記し、その序文では、推古二十八年(620年)に天皇の勅を奉じて聖徳太子が蘇我馬子等に命じて撰定させた、ということになっているのですが、これがまず大嘘でした。

というのは、本文には、旧事本紀からすれば後世の『書紀』(720年)や『古語拾遺』(807年)からの文言が引用されていたからです。

その長い間、真書だと思われていた理由ですが、どうも初めから偽書を作ろうと思っていたわけではないようです。

というのも、我が国初の正史「日本書紀」が出来てからほぼ三十年に一度、宮廷で講読される「日本紀講」という訓読法や文意を解き明かす会合が、公卿や殿上人相手にひらかれていたんですね。

そうした日本紀講の中で生成されていく中で新しい説がおのづから形成されていったというわけなんです。

それと物部氏のために構築された神話や十種の真言とか神宝をちりばめて出来上がった物部氏の誰かによる物部氏のための史書、それが、どうやら『先代旧事本紀』の骨格であったようです。

ですから、はじめは偽書を作ろうという意図はなかった。

あとから物部氏の誰かが物部氏復権のために、さきの「日本紀講」などを利用して作為した、というわけです。

しかし、近年、物部氏の伝承とか、参考とすべき多くの内容もあるという機運も起こってはいます。

鎌田純一氏とか安本美典氏とかの学者さんの論考です。

私には、弥生語というわが国の古代を解く最も重要な鍵から見ても『旧事本紀』については、疑問が前からたくさんありました。

もっとも、それをいうなら、記紀や古語拾遺も例外ではありませんですがね。

ここにも、たくさん作為的なものがあります。

いずれも、イザナキ神話のところでもすこし触れましたように、奈良時代にできた創作的部分はかなりあるからです。

官選だからといって、政治的意図がゼロということはありえません。

いや、官選であればこそ、そこに政治的意図がかえってあるはずです。

官とは、政治そのものですから。

お上(かみ)ですから。

上が下を支配する、非民主主義時代の書物です。

そうはいっても、官選の日本書紀は、同じことについていろんな説を伝えることによって、客観的、学問的立場を保持しているように見えます。

そして、書紀は、いよいよになると、後世にぶん投げてしまう、という態度をとります。

「後勘校者、知之也」(のちに考える者が、これを知るであろう)と記しているのです。

これでいいのかもしれませんがね。

今の科学者だってやり方はこれでしょう。

そもそも、「日本紀講」などという学問的会合が生まれたのだって、そういう日本書記のスタンスがあったからです。

さて、ここでは、あくまで、「天津祝詞の太祝詞」の話ですから、これを中心に話をします。

二点あります。

はたして、『旧事本紀』のなかの「一二三の祝詞」が「天津祝詞の太祝詞」たり得るか、ということ。

もう一点は、「ニギハヤヒ、別名、天照国照彦天火明命(あめのほあかりのみこと)」という天孫の正体についての弥生語による解明です。

おもしろそうでしょう。

自分で言うなって!(笑)

「一二三の祝詞」の方は少し長くなるので、「アメノホアカリ」の方から片づけていきましょう。 

「天火明櫛玉饒速日(あめのほあかりくしたまにぎはやひ)」という天孫は、日本書紀では饒速日命、古事記では邇藝速日命と表記されています。

先代旧事本紀では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と称しています。

名前の「天照国照」「火明」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である、とウィキペディアにありましたが、まさにその通りです。

どうしてそう言えるか。

弥生語という鍵でこのものの正体をあかします。

「弓前文書」のなかの「神文」第一章第二節に「オピメアカム(o pi mai au ka mu、どのようにして太陽が生まれたか)」というところがあります。

そこに、太陽生成の最終段階を、「アマノィポアカリ(a ma noi pou au ka ri、宇宙で輝く存在になった)→アマノホアカリ→天火明」とあります。

ようするに、天火明命とは、「太陽」の事です。

だから、ニギハヤヒは別名、天照御魂神(『神社志料』)とも言われるわけです。この限りでは正しいと思います。

なお、古代P音は、平安時代にはもうH音に変化していることは国語学会では定説となっています。

なので、古代語「ポアカリ」は「ホアカリ」となるのです。

「ニッポン」と「ニホン」と、なぜ二通りの言い方があるのかも、以上の理由からです。

さて、そうすると、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 これは 名前を重ねただけの、旧事紀編纂者の創作神の可能性が濃厚に漂ってくるのです。


天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)

彦火明命(ひこほあかりのみこと)

櫛玉命(くしたまのみこと)

饒速日命(にぎはやひのみこと)


天照国照尊 は、説明の必要はないでしょう。

火明命は、太陽の出来上がった状態の、元来は弥生語である、ことは解明しました。

櫛玉命 のクシタマは、奇魂の意を込めたつもりでしょう。

一霊四魂のなかで本体的意味を持つもっとも奥深い魂の意味です。

まあ言ってみれば、これも一つの修飾、称えごとの表現にすぎないものです。

最後の「饒速日命」は、太陽神、オオヒルメムチ(天照大御神)の孫として、記紀が記すニニギの尊のニギにあやかり、しかもその兄「ニギハヤヒ」という設定は、明らかに編纂者の創作である、と容易に推測できるものです。

ようするに、天照大御神の孫という皇孫ニニギと同等の先祖という肩書を物部氏としてはその権威付けにほしかった、といことではないでしょうか。

弥生語から、「ニギハヤヒ」を解読します。

まず、ニギは本来はニキ、これは、ニニギ(本来はニニキ)のもじりです。

皇孫、ニニギの尊にあやかるためです。

ではその一音一義の弥生語の意味はいかに。

    

  ニ       キ
 (niu)     (ki)
 (秩序体)  (際立った)→きわめて優れた存在   


これに、甕速日(ミカハヤヒ)、熯速日(ヒハヤヒ)の速日(ハヤヒ)の修飾的接尾語を加えた造語だと思います。

ハヤヒとは、パヤピ、ですから

 pa ya       piu
(力あふれる) (意志)

よって、ニギハヤヒ、の意味は

「きわめて優れた力あふれる意志をお持ちのお方」という意味になります。

言うことない完全なお方、という意味です。

ニニギの尊もほぼ同じ意味と言ってよいでしょう。

以上の解釈は、「当たらずといえども遠からず」と自負するものですが、みなさんはどう思われますか。

旧事本紀が日本書記や古語拾遺などの説話からヒントを得て創作されたことがわかってくると、饒速日降臨説話も自ずから馬脚を現してしまっている、と言えるでしょう。

その傍証と言えるのが、「十種神宝」と言われるものや「一二三の祝詞」といわれるものの不完全な創作です。

この話をします。

十種神宝(とくさのかんだから)とは、

瀛津鏡(オキツ鏡)、辺津鏡(へつ鏡)、八握劔(やつかの剣)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかえしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいいます。

この内容は何かと言いますと、古代中国や朝鮮でも、王権のシンボルであった「三種の神器」のバリエイションでしかありません。

「三種の神器」は、古代中国の道教の古典にその発祥の源があると思います。

その一つの根拠は、我が国の古代神道では、数字は、偶数を尊びます。

紙垂(しで)のつけ方一つを見ても、二枚→四→八→十六→三十二という偶数を使います。

ですから、大相撲の横綱の土俵入りの〆縄につけている五枚の紙垂は本当は間違いです。

相撲の起源としての神事を大切にするのであれば、横綱の紙垂は四枚にすべきです。

神格を得た者が横綱だからです。

あれでは横綱は神格は得られない、と言えます。

それから、拍手は、一般に二拍手、出雲大社では四拍手、伊勢の神宮では八拍手です。

偶数を使う理由。

それは、神霊のエネルギ―を受けるには、陰数の偶数がよいからです。

奇数は陽数で、発信、発展の数だから世間で尊ぶのは分かりますが、神事にはよくないと考えられたのです。

あと十種神宝(とくさのかんだから)の中の蛇のヒレ、蜂のヒレという呪物は大国主の根国訪問譚からの引用といってよいでしょう。

しかも、この十種神宝は、古来、どこにも存在してはいなかった、ということが致命的なのです。

さらに、その効能の胡散臭さについては、どなたかが言っているように、女性週刊誌などの雑誌の広告によくあるパワーストーンに匹敵するレベルだと思いますが、いかがですか。

効能があったとしても、それは、医学の世界でいう「プラシーボ効果」です。

プラシーボ効果とは、偽薬効果とも言いますが、いっさい薬効の成分が入っていないのに病気が快方に向かったり実際に治ってしまう「思い込みの力」ことを言います。

「思い込みの力」は確かに存在するのです。

これが今はやりの「思考は現実化する」自己啓発系の根拠になっているものです。

ですから、一概に、十種神宝の効能をまったく否定するつもりはありませんが、それ以上のものとは思えないレベルです。

次に、物部神道に伝わった「一二三の祝詞」の不完全さについて考えます。

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