天児屋根命による神ながらの道と成功法則

天児屋根の伝言2

天児屋根の伝言2

天児屋根の伝言2」を「天児屋根命の伝える生きる秘訣」と改めてブログを立ち上げ有益な情報を発信いたしたので、御笑覧いただけたら幸いです。
「天児屋根命が伝える生きる秘訣
それと「気になる人を深堀いていくトレンデイブログ」も立ち上げました。こちらも御覧いただけたら幸いです。


その天児屋根の伝言2とは次のようなものです。

すべては上手くいっているのです。

 あなたは、早くほんとうの自分を知ることです。
  
 実は、あなたはいません。

というのが、ある人を介してわたしに伝えられた天児屋根と思われる御霊からの霊言です。

この言葉には、人生の根本にふれる何か深いものを感じます。

お知らせ

すべてが上手くいっている世界

<すべてが上手くいっている世界>

この文言は大きく分けて二つの解釈が成り立つと思います。

一つは、「このまま仮にすべてが上手くいかない人生であっても、<すべてそれでよいのだ。すべてそのままでうまくいっている>のだ」と考える考えです。

それって、どういうことでしょうか?

たとえ、悲惨な一生でこの世を終えたとしても、例えば、ナチスのホロコーストで悲惨な生活のまま殺されて一生を終えたり、或いは普通に成功もなく不幸のままで終わったとしても,それでも、「すべては上手くいっている」と考える考えです。

そうであるためには、人の生は今世のみではなく、永遠の旅路の中にある、という前提があってのことです。

そこには、次のような仕組みで世界は出来上がっている前提があります。

① 人は死んでも死なない魂であり、この世も永遠の旅路の一過程である。

② 従って、輪廻転生に従って人は生まれまた死す。

これを何回も繰り返す。

最後(いつが最後かわからないが)は、結局「必要・必然・ベスト」だっていう人生観です。

インドのヒンズー教の人々は、おおむねこのような世界観を持っているようです。

では、もうひとつの「すべてが上手くいっている世界」があるという考えは、この世で、この身このままで「すべてが上手くいく世界」があるんだ、ということです。

ほとんどの人にとっては、仮に、魂が永遠に続くとしても、輪廻転生がほんとうだとしても、人は、とにかく、この世で、「すべてが上手くいく世界」を熱望しています。

果たして、そんな夢のような境地がほんとうにありうるでしょうか?

それとも、そんなことは、やはり、妄想にすぎないものでしょうか?

私は、アメノコヤネの示す「すべてが上手くいっている世界」とは、この第二の方だと思います。

何故かというと、次のコヤネの伝言の「ほんとうの自分を知る」という条件とつながっていると思うからです。

詳しいことは、おいおい話していきたいと思います。

ところが、そういう世界がある、と同じように断言していた世界的に有名な人がいました。

それはイエス・キリストです。

私はクリスチャンではありません。

「イエスを通してアーメン」というキリスト教信者ではありません。

教会で教えているキリスト教と言われている信仰は自分には全く無縁な世界です。

でも、伝えられるイエスの言動にはとても深いものがあり、とても魅力的で興味深いものがあります。

これまで私たちが探究している<すべてが上手くいっている世界>をイエスは聖書の中で何度も示唆しているからです。

ただし、次に示すイエスの文言は、聖書の翻訳そのままではなく、私が解釈した文言に変えてあります。

「空の鳥を見なさい。

かれらは種もまかず、刈り入れもせず、まして倉に納めるなどということもしない。

それでもあなたがたの天の父はこれを養ってくださる。

あなた方は空の鳥よりも価値あるものではないか。

また、着るものに困ったらどうしよう、などと思い煩うことはやめなさい。

野の百合がいかにして育つのかを考えなさい。

働きもしない。

紡(つむ)ぎもしない。

しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この百合の花ほどには着飾ってはいない、と言えます。

今日生えてあした炉に投げ入れられる野の草でさえ、あなたがたの天の父はこのように装って下さるのだ。

まして、あなたがたにはなおさらではないか。

だから、<どうしたら食べていけるだろうか>などと言って思い悩むことはもうやめなさい。

それらの物が、みな、あなた方にとって、どんなに必要なものであるか、そのことを、あなたがたの天の父は、重々、承知しておられる。

だから、なによりも、すべてがそろっている神の国とその神の国へ入れる法則をまず知りなさい、そして、それを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、例外なく与えられるのだ」

という話が伝わっています。(マタイ伝6-25)

神の国はどこにあるのか

もう少しイエスの話を進めてみます。

じゃ、その神の国はどこにあるのでしょうか。

これを知りたいですよね。

この事に関しては、ルカ伝17-12のところに、こうあります。

「パリサイ人は尋ねた。

<神の国はいつくるのでしょうか?>

イエスは次のように答えます。

神の国は、見える形では来ない。

神の国は<ほらここにある、あそこにある>と言えるものではないからである。

実に、神の国は、あなたがたのなかにあるのだ。

しかも、目と鼻の間の近さにある。

耳あるものは聞くがよい。」

つまり、「すべてが上手くいっている世界」は、目と鼻の間の近い所にすでにダウンロードされている、というのです。

そう言われても、これを知る方法を人は知りません。

「すべてが上手くいく」狭き門に入る道・その1

では、これを知るにはどうしたらよいのでしょか。

これをわたくしなりに探っていきます。

ここでまず、<すべてが上手くいっている世界>のことを、宗教用語で言えば、<神の国>と言っているだけだ、ということを確認しておきましょう。

旧約聖書で言うと、<神の国>とは<エデンの園>です。

その楽園に、人類の代表であるアダムとイブが住んでいたのに<知恵の木の実>を食べたばかりに、<エデンの園>、すなわち、<すべてが上手くいっていた神の国の楽園>から追い出されてしまったという神話がのっています。

では、<知恵の木の実>とは何のことなのでしょうか。

その実態とは何でしょうか。

それは、人間だけが持つようになった仏教でいう<識(しき)>のことをいっているのです。

般若心経でいう<受・想・行・識>の中の<識>のことです。

では、あらためて、識とは何でしょうか。

たとえば、一匹のネズミが人間の住む台所にやってきて、あちこちに置いてある団子を見つけた、とします。

「ああ、おいしそうな、いい匂いがするものがあるな」と感受する。

これが<受>です。

しかも、あちこちに置いてある。

おいしそうだ!

たまらず食べたいと思う。

これが<想>です。

そしてその一つを食べたとします。

これが行動の<行>です。

ところが、可哀そうに、まもなくして、ネズミは倒れ、足をバタバタさせて死んでしまいました。

それは、おいしそうでも、毒入り団子だったのです。

動物はこのように<受・想・行>までしか持っていません。

考えて識別する<識>はないのです。

そして、植物は<受・想>までしかありません。

植物は歩いたり行動できないですからね。

ついでに、鉱物は<受>だけです。

鉱物も「反応」はします。

ですから、<受>を持っている鉱物は、その意味では、生きています。

しかし、生きとし生けるもののなかで、人間だけが、<受・想・行>だけでなく<識>という機能を大脳に持っています。

考え、識別する知性を持っているのです。

「まてよ、これはネズミ取りの毒入り団子ではないか、だからあちこちに置いてあるのではないのか」と識別し、だから「食べない」という選択をする知恵が発達しています。

この識があればこそ、人類は火を使い、田に水を引いて米を作り、自然をそのまま享受するだけでなく、これを変えることもして文明、文化を作り上げては、万物の上に君臨してきました。

しかし、この識は、実は、両刃の剣という厄介なものです。

識、すなわち、知性はよい方向、よい目的に使われれば、便利なよりよい生活をもたらします。

しかし、人間は、愚かにも、その反対にもこの識を誤り使ってしまうのです。

自我に発する不平、不満、恨み、憎しみ、怒り、妬みのマイナスの感情にもその識は使われて、復讐の連鎖や破壊や犯罪、戦争をしています。

その意味では、理性(知性)=識は、狂気や混乱をもたらす人類の苦悩の源です。

今、世界中に起こって新聞を賑わせている事件は皆これです。

また、人間だけが自殺をします。

そして、ほとんどの病気が、この<識>あるがゆえのマイナスの感情によって引き起こされています。

心のストレスと無関係な病気はほとんどないことが、今では分かっています。

また、人間は開発、開拓と称して自然を変え破壊します。

識は人間の自我の成長に伴なって厄介なものになってきます。

自分が自分がという自我の肥大に伴ってマイナスにはたらく識も大きくなります。

一般に、エゴ、利己と言っているものが大きくなります。

文豪、夏目漱石は、生涯、「利己」の問題に悩み、これに立ち向かい、それをテーマに作品を世に問い続けた作家でした。

そして、漱石は「則天去私(そくてんきょし)」こそが、人の幸せの道であると考えるに至り、この標語を人の到達すべき理想としてかかげました。

則天去私、「天にのっとり私を去る」、結論から申し上げれば、これこそが、「すべてが上手くいく」狭き門に入る道です。

「自我の壁」、エゴとしての自我、これがここで言う「私」です。

この「自我の壁」が、私たちの内にある天、すなわち、目と鼻の先にあるといわれる「すべてが上手くいく神の国」に至る道をふさいでいます。

イエス・キリストは、この「自我の壁」を取り除く道として「隣人愛」を説きました。

「自分を愛するように他の人を愛せよ」と、すなわち「自分がしてほしいと思うことを他の人にしてあげなさい」と、また「自分を悪く言い自分を苦しめる者のために祈れ」と。

これも、ひとえに自分の中の「自我の壁」を取り払う為です。

それを取り払いさえすれば、常に私たち生きとし生けるものに向かって限りのない愛と豊かさを与えようと、私たちの内で、今も現に待ち構えている、目と鼻の先にダウンロードされている天、神の国の狭き門が開く、という真理を伝えたのがイエスの中心メッセージだと思います。

全人類の罪をあがなうためにこの世に生まれ、これを背負った十字架の「神の独り子」イエスを信じることで人は救われる、とするこれまでの「教会キリスト教」は、イエスの本意だったとは、到底思えません。

これは、イエスの死後、パウロなどの弟子があみだし構築したキリスト教であることが今では、分かっています。

あるチャネリングで、イエスが「私はクリスチャンではない」と言っている、とありましたが、その通りだと思います。

これに対し、イエスキリストはむろんクリスチャンではない。「救い主」の方だから。クリスチャンとは救い主イエスを信じる信徒のことだ、と即座に反論される方がおられるかもしれません。

しかし、イエスが「私はクリスチャンではない」と言った意味は、自分はいわゆる「教会キリスト教」でいう「キリスト教」を説いた覚えはなく、従ってそのようなキリスト教を信じるクリスチャンではない、ということです。

教会キリスト教は私の教えではない、と教祖自ら言っているわけです。
もうこのようなキリスト教はそろそろ終わりを迎えるでしょう。

現に、欧米の知性の高くなった現代人からは建前の信者はともかくその本当の信者はどんどん減っています。

それは、歴史的にも功罪相半ばがキリスト教だという認識があるからだと思います。

ただし、全人類の罪をあがなうためにこの世に生まれ、これを背負うイエスという捉え方は、とても深遠な真理を含んでいると思います。

それは、人はだれでも自分の遺伝子という情報の中に、私たちの人間としての先祖は無論のこと宇宙が始まって以来の過去の記憶のなかにあるゴミのような罪穢れが厖大に累積されており、それがためにその記憶が再生される度に災いが生起し、実際、「人生は苦」にあやどられています。

悩みがまったくない人は独りもいないでしょう。

そのワケは、ヒトとしてだけでなく宇宙創成以来の過去の記憶を共有して生きているからです。

誰だって肉体ひとつとっても、宇宙のカケラから出来ています。

誰でも水素、酸素、炭素、窒素などの宇宙の構成元素から出来ています。

そして、人類が作り出した「もろもろの禍事(まがごと)罪穢れ」をも共有しているのです。

原罪という観念もそこからきているのです。

ここから解放されるために人が踏むべき道を教えるために世に現れた一人がイエスだと私は思っています。

神道の世界では、この人の人生に災いを生起せしめる罪けがれというゴミを祓うために、ひたすら祓うという考え方があります。

その点では同じです。

神道の真髄は「祓いに始まって祓いに終わる」ところにあるからです。

話をもどします。

かつてイエスが引用した「空の鳥」や「野のユリ」の話で、イエスはそこには「自我の壁」がないから、そこに宿っている「父なる天」はこれらを養い、限りのない愛と豊かさをそそいで一生を全うさせている、と語ったのです。

したがって、「今日生えてあした炉に投げ入れられる野の草でさえ、あなたがたの天の父はこのように装って下さるのだ。まして、あなたがた人間はなおさらではないか」と言っているのです。

全ての人に、万物がそうであるように、「天の父」が宿っています。

それは常に私たち生きとし生けるものに限りのない愛と豊かさを与えようと、私たちの内で、今も現に目と鼻の先にダウンロードされている「天、神の国」のことです。

宇宙は愛です、愛そのものです。

生きとし生けるものを常に生かそう生かそうとしています。

内に仏を宿して生かそう生かそうとしているのです。

これを「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)」と言います。

そして、生きとし生けるものを常に慈愛の目をもって視ています。

これを「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」と言います。

そしてその「慈眼視衆生」している存在があなたの中に、あなたと共に今も永遠にいます。

これを、仏教では「同行二人(どうぎょうふたり)」ともいいます。

キリスト教では「インマニュエル(神我と共にあり)」というようです。

イエスはこう言いました。

「父がわが内にあり、・・・」と。

ですから、なによりもまず、どんな有名神社や産土(うぶすな)の外在の神さまよりもこの「自分の中の内在の神」をこそ第一に拝すべきだと思います。

かつて我が国の皇室祭祀を司っていた白川伯王家 の伯家神道には、この「内なる神」を拝む儀式として「自霊拝」ないし「自神拝」という行法があります。

たしか、垂加神道でも行っている行法です。

それは、「草も木も人はなおさら真砂(まさご)まで神の社(やしろ)と知る人ぞ神」(伯家神道)という真理に基づく行法です。

これは「万物に神宿る」という古代アミニズム神道であり、だからこそ「八百万の神々」なのであり、インドの宗教哲学で言う「一即多、多即一」として知られる真理に基づく行法です。

「自神拝」の行法、それはそれで正しいし、人が人生で成功したり幸せになるための「自己肯定」にとっては大変すばらしい行法だと思います。

しかし、やっておられる方々はお分かりでしょうが、目と鼻の先にダウンロードされている「内なる天、神の国」の狭き門は「自神拝」では開かないと思います。

凍結したままだと思います。

それでは解凍されないのです。

何故でしょうか。

「自神拝」は、誤ると、かえって「自我の壁の強化」になってしまう危険があるからです。

それは、「神」が何であるかをほんとうには体験していない人が、「自分は神」だ、と思いこむことは「自我の壁」に拍車をかけることになる危険があるということです。

ほんとうに「自我」の問題は、厄介なんですね。

それは、キリスト教社会で、キリスト教の「愛の利他的行為」がしばしば「自我の自利」を動機付けとしている「偽善」と好一対です。

このような「愛の行為」は、「自我の壁の内」だからです。

このように難しく考えると難しくなります。

たしかに、イエスのいう「愛」は、「自分自身の根源について余りに無知のままに眠っているような私たち」には、その実行は大変難しいものです。

あなたを悪く言い、苦しめる人のために、ほんとうに心の底から祈ることができますか。

とても出来ないですよね。

イエスのいう「愛」は良い教えだが、なかなか実行できないというところが本音ではないですか。

私も同じ思いです。

しかしながら、「愛という不思議な力」が「則天」への狭き門を開く力があることも事実なのです。

弓前文書の「神文」にもこの「不思議な力をふるい起こす」ことによって「蘇えること」を禊ぎ(みそぎ)というのだ、というくだりがあります。

  プル    クチ     ミソ     ユキ
(puru)   (kutiu)   (miso)    (yuki)
(奮い起こせば)(不思議な力を) (無我になり)  (蘇える)

不思議な力を奮い起こせば無我となり蘇えることができるのだ、と言っています。

むろん、ここに「愛」という言葉はじかにはありません。

しかし「無我に至る最高の方法が愛である」ことは確かな事実です。

だったら、やはり「不思議な力」のうちの「最高の力」を発揮すれば無我となって「神の国」を開(あ)けることができるのです。

なお、みそぎ、とは、弓前文書では、本質は、水に入ることではありません。

水行は、滝行もそうでしょうが、「清める」という疑似体験を行うための呪術的行法です。

イエスの「愛」による洗礼の出現前の、洗礼者ヨハネも、水行によって洗礼をしていました。

神社の入り口の手水舎(てみずしゃ)に「洗心」という文字がよくありますが、あれも、水で手と口を洗うことで、「清める」疑似体験をするわけです。

なお、古代語「ミソユキ」が「ミソギ(禊)」の語源です。

しかし、ここは、はじめから難しく考えないで、無我への道を目指せばよいと思うのです。

楽にやさしく考えればいいと思います。

ではどうやって?

まず、固い壁になっているように見える自我をより少なくしていくには、自分の幼少期時代を思い起こすことです。

赤子は、動物と同じで「誰でもない私」を生きています。

共に無邪気、無我・無心を生きているのです。

イエスは、イエスから子供を遠ざけようとする大人たちを制止して、「神の国に住む人とは、この幼子のような者である」と言っています。

「私が誰かに成る」につれて、自我が生まれ、<すべてが上手くいく>障害が出てきますが、要は「無我状態」に近づけばよいのです。

その第一の秘訣を言います。

できるだけ、「識」を明るいことにフォーカスして使うことです。

日々、とにかく、「できるだけ楽しいこと、嬉しいこと、有難いこと、心から笑えること、幸せなことにフォーカスする」だけで、人は<無我状態>に近づけます。

実は、このことを発見した、ワールドクラスの宗教的天才が日本にいました。

それは、幕末の神道家、黒住宗忠という人です。

明治天皇の父君である孝明天皇の唯一の勅願所とされた宗忠神社の御祭神になっている方です。

太陽神、天照大御神を、ひとりわが国の親神という従来の民族神から世界の親神という普遍的水準にまで神道を引き上げた人です。

そして、「自我」の水準を「一つの自分」にまで引き上げることができた神人です。

その宗忠神が「一つの自分」を詠んだ<無我の歌>があります。

「あるものは皆吹きはらえ大空の

        無きこそ己が住処(すみか)なりけり」

まさに「則天去私」そのものを生きています。

その証拠は、宗忠神の次の言葉にはっきりと現れています。

この悟り以来、「この世で叶わないことは何もなくなった」と言っています。

宗忠神の内にダウンロードされている「すべてが上手くいっている天ないし神の国」が解きはなたれ、宗忠神の生活に実現している、と言っているわけです。

その解凍のための一つの秘訣、それは次の宗忠神の言葉の中にあります。

「嬉しい、面白い、有難い、この三つの気分が人間に揃(そろ)うと、人はこの世で叶わないことは何一つなくなります

「嬉しい」という思いの中には、ただ無邪気な無我状態があるだけです。

「面白い」と思う思いの中にもただ好奇心があるだけで我欲はありません。

「有難い」と思う感謝の中にもエゴは消えています。

ですから「ありがとう」を一万遍となえたらよいことがドンドン起きたなどという自己啓発の本がベストセラーになっているようですが本当の話だと思います。さらに何万遍も唱えたら癌もきえたとか。

大いにありえる話です。

なぜそうなるかの理論上のワケにはあまり触れていないので長続きする人が少ないのだと思います。


以上で、天児屋根命の伝言2の

「すべては上手くいっているのです。

      早くほんとうの自分を知ることです。

              実は、あなたはいません。」

が少しだけわかったような気になりませんか。

自分が「無であり空である、無我こそ己が住処である」と悟ることが「すべては上手くいっている」状態の源泉となっているのです。

さてここで、お知らせしたいことがあります。

成功哲学としての天児屋根の伝言2は一応ここで閉めさせていただきます。
その代わりに、ブログのようにもっと自由に平明で気楽な語りで、タイトルも「世界一の問題解決法の探求」と改めて違った形で成功哲学を展開したいと思います。

より実用的で生活に密着した「世界一の問題解決法の探求」のブログです。

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