天児屋根命による神ながらの道と成功法則

日本の古代史

日本の古代史



紀元一世紀前後のころの事です。

この頃、我が国には九州の五島列島や博多を拠点として山東半島東岸から朝鮮南部、そして瀬戸内海や難波(大阪)や三輪(大和)に至る広大な交易圏を形成していた倭人天族(わじんあまぞく)という一部族がありました。

倭人天族は、もともと内地にいた縄文人と同族ですのでDNAは同じです。

しかしながら、約一万年前頃氷河期が終わってから約数千年以上に渡って、海に出た倭人天族と内地の縄文人とは、それぞれが海洋民、内陸民に分かれて生活していきましたから、そうした長い年月のなかで生活様式や言語を異にするようになったのです。

この倭人天族は、当時、海洋での活動を通して稲作と鉄の文化を席巻するようになり、弥生時代のこの頃には、この部族は大君(後の天皇)の下で大いに栄えていたのです。

結論から言えば、朝鮮経由で中国や南方から稲作をもたらしたとされている、いわゆる弥生人の実体とは、実は、この倭人天族のことなのです。

中国の史書はこの部族のことを次のように伝えています。

「倭人は、帯方(たいほう)(ソウル)の東南、大海の中にあり、山島によりて国邑(こくゆう)をなす。もと百余国、漢の時、朝見する者あり、今、使役通ずるところ三十か国」(魏志倭人伝)

三世紀ころの中国の「魏志倭人伝」という歴史書にのっています。

楽浪(らくろう)(ピョンヤン)海中に倭人あり、百余国に相争う」(漢書)

この漢書も一世紀ころの中国の歴史書です。

ところが,倭人天族にとっての最大のお得意先であった内陸の三輪(大和)に住んでいた縄文人の三輪一族も馬鹿ではありませんから,倭人から稲作、鉄を大量に仕入れては、今度は関東や東北の人々に売りつけて莫大な利益を貪ぼるようになりました。

そうして、もともと関東地方にも商圏を持っていた天族には大きな痛手でした。その間にいろんな妨害や摩擦が、当然頻発するようになったのです。

これを知った九州の倭の国では、大王の下、中津・弓前の祭祀一族にも卜占をさせ天意を伺った結果、遂に一つの結論に至ります。

三輪にもう一つの大和の国を樹立せよ!

そして土地の三輪の神に、オオモノヌチを添えてあらためて斎きまつれ、と。これすべてピルメ大霊(おおひ、後の天照大御神)の意、と委細心得には書かれています。

こうして崇神天皇として知られる大君を頂点とする大和朝廷がここに樹立されます。

国の大君のはじまりです。

だからこそ記紀でも崇神天皇を(ハツクニシラススメラミコト)と記(しる)さざるをえなかったわけです。

そうすると、神武天皇と二人の「ハツクニシラススメラミコト」がいたということになってしまうのですが、このことを、日本書記は「後の者が考えるであろう」という態度で矛盾をそのまま残したままにしてあります。

日本書紀編纂者のせめてもの良心といったところでしょうか。

興味深い所です。

これが、実は、記紀によって「神武東征」とされた物語の祖形なのですが、実際には、この頃、大和は本拠地である九州を遠く離れていましたから対外政策の為にも、九州と奈良の二王朝制をとっていたのです。

九州には景行という大君、大和には崇神という大君がいました。

約三百六十年の頃です。

以上の仮説は、あくまで「弓前(ゆま)文書(もんじょ)」という元々は七世紀の香取神宮にあり、後に藤原九条今野家に秘匿(ひとく)されていた古文書に記されている日本古代史です。

これも仮説として考えていただいて結構ですが、記紀の編纂者が我が国の建国の時期を釈迦、孔子前にさかのぼらせることで、我が国の建国を権威づけていたと思われます。

三六〇年頃の崇神東征に変えて、紀元前六六〇年の神武東征としたことから、この二王朝制のことはどうしても隠蔽せざるをえなかったという事情があったようです。

この仮説は、仮説といっても、現在の歴史学界、考古学界においては、二王朝制は別として、ほぼ定説とされていると言ってよいでしょう。

紀元前六六〇年頃は、どう考えても、小規模にもせよ、国家として成立するような国の存在はあり得ない、と考えられるからです。

その頃はどう考えても縄文文化そのものの時代であり、水田稲作も鉄文化もまだ日本にはない時代です。

移動を基本とする縄文時代には、村落共同体のようなものはなく、従って国と呼べる統一体もありえない、と考える方が自然です。

第一、クニ(国)という言葉は、実は、弥生語です。

        ク      ニ
        xu     niu
      (食うための) (秩序体)

むろんこの頃の「くに」という言葉は今の国家という意味はありません。江戸時代の頃の人が「おらがクニでは」といったときの、狭い村落共同体の意味でのクニです。

クニは古代の倭人天族の使っていた言葉の一つです。

ク(xu)はカ行のク(ku)ではなく、喉音(こうおん)といって喉の奥から出す音で、カ行でもハ行でもなく、その中間の音で現代語にはなく、X行は、総じて「食べ物」の意味です。

生物にとって切実で喉から手が出るほど欲しいものは、まず食べ物です。

それで喉音X行の言葉が、原始時代生まれたという、自然さながらで合理的な意味を持つ、まさに「かむながら」な言葉だと言えます。

ですから、クニとは一つの「米」や野菜などの食べ物を生み出す秩序ある村落の意味なのです。

ですから、まだ村落が定まった一定のクニは、例外はあったとしても、紀元前六六〇年頃はありえないし、移動を基本とする縄文時代であったということが分かります。

但し、弓前史観からみれば、神武天皇というその名称はともかく、その存在に該当するハツクニシラススメラミコトが、崇神天皇とは別に九州時代にすでに、はるか昔に存在していたであろうことは十分に推定できます。
 
何故なら、天族は紀元前一千年頃には南鮮、本土の南海及び瀬戸内海には居住いていたし、天の大君の天族の本拠地が博多と五島列島に成立したのは紀元一三〇年の頃とみられているからです。

ついでに触れておくと、「二王朝制」を記述する弓前文書の証拠となる文献が、実は、中国側にあります。

それが、十世紀に成る「旧唐書(くとうしょ)」です。

日本は倭国の別種である。・・・・・日本はもと小国であったが、倭国を併す」と。

ここに語られている「日本」は「大和政権」しか考えられません。

なんとこの大和政権は倭国とは別の勢力で、もとは小国であったが、その倭国を、十世紀の時点では既に併合している、と記述しているのです。

倭国と日本をわけて考えている中国の文献が記紀と齟齬(そご)している点を見逃がしてはいけないのです。

今の時代、知らないふりをすることは許されないのです。

「旧唐書」東夷伝には、現に、「日本伝」にならんで「倭国伝」があり、そこに「倭国はいにしえの倭(わの)奴(なの)国(くに)(現在の福岡市地方)である」とはっきり記述しているのです。

なぜこうも、長い間、こんな重大な真実に目をつむるのでしょうか。

神社界はともかく、真理探究者である学者の世界でも、やはり人間としての資質の問題なのでしょうか。

学者とは、しょせん、知れる者、ではなく、学びつつある学生に過ぎないのしょうか。

先生というのは、ただ先に生まれた学生に過ぎないのかもしれません。

年を食っているというだけかもしれません。

それに、やはり、社会的地位のある人ほど真実や真理よりは利益や保身を優先する傾向があるようです。

だからこそ、社会的地位が高いのでしょう。

映画やドラマでもこういう描き方をしている作品はやたら多いですからね。

山崎豊子や松本清張はその代表格です。

実際の今の人間界の真実をついています。

こういう印象を与えてしまう(誤解ならいいのですが)今の日本社会に希望を持つ人が、だんだん少なくなっていくのは当然でしょう。

いつでも国を滅ぼす人々は社会的地位の高い人から出ます。

その腐り具合が多くなればなるほど国は滅びます。

それによって多くの国民が泣きを見ます。

中国は清の時代。

科挙(かきょ)という高級官僚になる試験制度がありましたが、頭のいい人はこぞってこれに受かろうと懸命に勉強しました。

そこまではいいです。

しかし、刻苦精励、勉強するその動機を聞いてびっくり!

その動機とは、合格してそうした社会的地位の高い役人になれば、

間違いなく賄賂で私腹を肥やすことができるから、とのことです。

清の国が滅んだ最大の理由だ、と言われています。

日本も同じようにならなければいいのですが。

情けない。

閑話休題。

話をもどします。

倭人天族の日本での抬頭

「倭人天族」のグループは、縄文時代が終る二千数百年前頃から、中国の東南地方や南朝鮮などから主に稲(いね)籾(もみ)や後に鉄製の農機具などを仕入れては、日本本土にいたいわゆる縄文人に貸し与え、その見返りとして、大きな比率で収穫を受け取る、そんなシステムをつくっていました。

日本内陸からは、逆に、鉱石や勾玉の原料などの商品を、中国や朝鮮へ持って行くのです。

そうした海上による商取引によって、倭人天族は、九州西北を中心に一大海洋物流商事組織のようなものを形成していたようです。

当然、海兵隊のような強力な軍隊をともなっていて、その強力な軍隊は、「斎(さ)重城(えき)」と呼ばれ、恐れらていました。
 
「魏志倭人伝」に出てくる、博多にあって恐れられていた*「一(いち)大率(だいそつ)」といわれた存在とは、おそらくこの斎(さ)重城(えき)の一軍団をさしているのではないかと思います。

一大率(いちだいそつ)

一大率(いちだいそつ)――中国三世紀末の史書「魏志倭人伝」には、「女王国以北には特に一大率を置き諸国を検察せしむ」とあり、更に「諸国これを異憚(いたん)す。常に伊都(いと)国(こく)に治(しら)す」とあります。

一大率は伊都国(福岡県糸島付近)に常駐して西北九州を軍事的、行政的に統括していた、と伝えています。


この倭人天族が、五島列島や博多を拠点に、海上組織を確立させたのは、中国の魏の国が建国されるAD二百二十年より少し前の百三十年頃であろうと推定されます。

さて一般に、縄文、弥生、古墳という時代区分があります。

この区分は、もともと土器編年のために生まれた考古学上の区分です。

縄文時代の土器は、縄目(なわめ)がついた土器ですし、弥生の土器は、良質の粘土を高温で焼いたものを言い、東京文京区の弥生町ではじめて発見されたところから、この名がついたことを私たちは中学生のころに学びました。

そして、二百万年にも及ぶ長い氷河期の石器時代が終わり、地球がだんだんと暖かくなっていった約一万三千年少し前くらいが、縄文の始まりだとされています。

その頃、人々は、もっぱら、山野で木の実や果物を採集したり、あるいは野生の鳥獣を捕獲したり、動物が食べ残した骨の中の骨髄を収集したり、川や海で漁労の出来る所を求めては、各地を転々として移動する。

これまではそんな生活様式が縄文時代なのだと理解されてきました。

ところがですね、その縄文時代という時代は、どうやらわれわれ後世のものが想像していたほど、常に移動を余儀なくされるような、そんな厳しい生活環境ではなかったのではないか、ということが、たとえば、青森の三内丸山遺跡などの発見によって、だんだんとわかってきたんです。

というのも、地球の温暖化で山や野には、食べものがたくさん満ち溢れ、温暖化による海(かい)進(しん)によって、内陸には入り江がたくさんできて、そこがまた、絶好の漁場(ぎょじょう)にもなる、といった環境の変化が大いに幸いしていたようなんです。

ことに、縄文の前期から中期にかけては、食料はとても豊富にあったようで、このことは、四千年前の福井県の三方(みかた)湖(こ)遺蹟からも十分にうかがい知ることができるのです。

地球の温暖化とともに、太平洋側だけではなくて日本海にも黒潮からの対馬暖流が流れ込むし、日本列島全体が四季に富む温暖で湿潤な気候となり、それが、縄文人の定住化をかなりな程度可能にしたのではないか、と言われるようになったのです。

それでも、縄文も後期になると、気候が冷涼化し、特に西日本の方から、徐々に物不足が人々を襲うようになります。

縄文の前期と後期とでは、平均気温が四度差もあったというのですから、これまで十分に採れていた木の実やそれを食料としていた動物も激減し、後期にかけては、人口が約三倍も増えたこともあり、これまでの平穏な共存共栄の関係がたいへん難しくなっていったのです。

水田稲作という生活革命

そこで新しい食料資源が切実に求められる時代となり、渡りに船とその救世主となったのが、「稲作の栽培」です。

日本全土がわずかの間に縄文から弥生へと急速に変貌できた背景にはこうした事情があった、ということがわかります。

 中国の雲南や長江などで稲作が始まるのが、紀元前七千年から五千年といわれています。

それが揚子江に広がるのが紀元前三千年、さらに中国の山東半島から対岸の朝鮮半島へ伝わるのが、紀元前一千年位、と推定されています。

 そして、これまで水田稲作は、だいたい紀元前五百年ごろと考えられていましたが、最近の研究では、福岡の板付遺跡や佐賀の菜畑遺跡から、前十世紀ごろと思われる水田の遺跡見つかったりして、弥生時代のはじまりの時期が、従来の定説よりも、少なくとも五百年はさかのぼるのではないかという説も出てきています。

とにかく、こうして稲作が北九州を中心に日本にも拡がりを見せ、たちまち海岸沿いの地域に伝わり、東へは今の愛知のあたりにまで一気に広まっていったのです。

一方、東日本での稲作は、かなり遅れます。

何故なら食べ物が沢山あったからです。

こうして関東地方では紀元一世紀ごろ、東北の北部では、三世紀ごろに入ってから、ようやく稲作が取り入れられたようです。

しかし、すでに述べましたたように、東北地方でも、紀元前から稲作の形跡があったという学説もでています。

縄文人も、後の弥生人のように、早くから潮流にのって日本各地に来ていたのではないかという説もあります。

この辺のことは今一つわからないところがあります。

いずれにしても、ここでは、この稲作栽培の伝播(でんぱ)にとても大きな中心的役割を果たした存在があったという仮説にたっています。

それは一体誰か。

どのような集団(グループ)か。

これを探ってみたいと思います。

 このことに関しては、従来、二つの説がありました。

一つは、南方からジャポニカという品種をもたらした人種。有名な柳田国男の「海上の道」に、南方からの日本人渡来説があります。

この南方説に対し、長い間、有力視されてきた中国や朝鮮から九州への弥生人の大陸渡来説があります。

 しかし、一九八一年、青森県の水田跡の考古資料が、弥生前期にまでさかのぼることがわかったり、大阪茨木の水田跡は、最古の福岡水田跡とほぼ同時代、という結果も出たり、更には、弥生のシンボルともいうべき福岡県の遠賀川式土器が、東北からも、縄文土器と一緒に出てきたりしています。

こうした考古学上の証拠がいろいろと出るに及んで、今では、弥生人大陸渡来説は、時間的に見ても、はなはだ頼りない仮説となっています。

 それに、いわゆる弥生人が、たとえば大陸の中国や朝鮮やツングース族などの、いずれかの渡来人ではないと言える根拠は、なんといっても、言葉なのです。

 弥生人の主な人々が、仮に中国や韓国やツングース族などのいずれかであったとしたら、その後の倭の国を席巻することになる大和朝廷の使う主要な言語に、なんらかの、はっきりとわかるその民族特有の言語の痕跡が、必ずあるはずです。

それがない。

弥生時代以後の日本語にその痕跡は皆無に等しいのです。

なので、「日本国家の起源が東北アジアの騎馬民族の日本征服にある」と主張した江上波夫の説も、また松本清張の百済王朝を建てた扶余族が、海を渡って大和国家を建てたというのも、その根拠となる決定的なものが欠けています。

それは、支配者たちが使っていた言葉です。

騎馬民族が使っていたウィグル語は、どう考えても日本の古代語、ことに大和政権を打ち立てた天族の弥生語とは全く異なる言葉です。

それから、高句麗と百済と倭語とが母音で終わる開音節であるというだけでは、扶余族の言語が弥生語の基盤をなしているなどとは到底言えません。

はっきりいって、日本語は、言葉としては、大陸の中国語、韓国語など近隣国の言葉はもちろん、その他のいかなる国の言語とも似ていません。

これはもう国語学の定説といってもよいほどはっきりしています。

国語の問題については、日本の古代語でお話しします。

倭人天族が台頭した弥生という時代

そうすると、稲作を日本に移入して画期的な産業革命をもたらしたものとは、一体、いかなるグループなのか、ということになりますね。

本論の結論を申しましょう。

 それは、当時の状況証拠からみて、どう考えても、中国の周、漢、魏の時代の文献に、「倭人(わじん)」と記された海洋民族である「倭人天族」しかありえないと言うのが本書の結論です。

 ここで、中国側のその文献を引用して確認しておきます。

すなわち、紀元前一世紀の日本のことを記した(しる)中国の歴史書の漢書「地理志」には、次のようにあります。

「楽浪(らくろう)付近の海の中に、倭人がいる。それは、百余りに分かれており、倭人はしばしば漢に来て、皇帝にお目通りを願う」と。

 楽浪郡の中心は、今の平壌(へいじょう)あたりですから、この記述は必ずしも正確とは言えません。

実際には、倭人(天族)は、遥か東南の九州の西北や五島列島などの島々や瀬戸内海の島々を拠点として居住していたからです。

 三世紀末に書かれた魏志倭人伝は、

 「倭人は、魏の帯方(たいほう)郡(ぐん)から海を隔てた東南の位置に住んでいる。国は島のなかにできている」と記(しる)しています。

「倭人は、島が国でそこに住んでいる」と言っているのです。

原文はこうです。「山(さん)島(とう)に依り(よ)て国邑(こくゆう)を為る(つく)」と。

だからこそ、今の、五島列島を中心として、福岡の「奴(な)の国」のあった博多近隣辺りを拠点としていたであろうと推定するのです。
五島列島は南からと北からの潮流の出会うところで、海洋民にとってとても便利な絶好な拠点です。

では、ここで言う倭人天族とは、元来どこからやって来たのでしょうか、そのルーツを探ってみたいと思います。
まあこれも一つの仮説ではあります。

通説に従えば、火の使用から始まり現在の人類に近い原人ホモ・エレクトスが現れたのが約百九十万年前だ、と言われています。

この原人が、アフリカから出て、やがて、学校の教科書でお馴染みの北京原人やジャワ原人やネアンデルタール人へと進化したといいます。

 人類史のよると、六十万年前頃、ホモ・サピエンスがアフリカで生まれ、先の原人と共存し、約三〇万年前ころには、原人の多くが絶滅してホモ・サピエンスだけとなります。

だが、この古代型のホモ・サピエンスと現代の人類の先祖とされるホモ・サピエンスの新人とは別で、現在の白人、黒人、黄色人種の祖先である新人の方は、約十七万年前に、アフリカのキリマンジェロのふもとに誕生し、約五万年前にアフリカを出て勢力を拡大したのです。

西アジアを経由して、ユーラシア大陸全域にその広がりを見せ、約四万年前にヒマラヤ山脈から北の方へ向かったものとはべつに、南のほうへ下っていった新人は、優れた狩猟技術を持って先住していた原人の子孫を圧倒して、居住域を広げ、 やがて、温暖な東南アジアへと移住していったグループがいたのです。

このグループを倭人天族の祖とするのが本書の仮説です。

その根拠の一つは、やはり、言葉です。

ここでいう弥生語の言葉自体は、どうみても、中国語をはじめいわゆる大陸系の言葉ではありません。

現に、近年、上代の日本語は、南方のポリネシアやミクロネシア方面の言葉に近い、という学説が、だんだんと有力視されてきているのです

なるほど、言葉のならびの構文は、朝鮮語などの大陸系のウラル・アルタイ語とそっくりです。

しかし、それは、奈良時代にでき上がった日本語の構文を作り上げた主な人々が韓国からのいわゆる「渡来人」だったからにすぎません。

それだけの理由です。

そして、およそ、三万年前頃から、次々と、各地へ移動し、日本の北海道の方へ北上していったいわゆる縄文人の先祖とは別に、その一部が、台湾と沖縄の間の南西諸島に居住するようになり、その後、氷河期が終わる約一万三千年前ごろから、九州の西海岸や朝鮮の南端に向けて、海洋民族として展開していった人々が「倭人天族」です。

やがて黄海や東シナ海ヘと進出し、中国大陸沿岸や朝鮮半島南端をもうかがいながら、海洋民族として成長していったのです。

以上が、倭人天族のルーツに関する大まかな仮説です。

そういうわけで、先に北上し土着した、いわゆる縄文人と、倭人天族とよばれた、ここでいう弥生人とは、だからDNAは同じだというわけです。

この検証はすでに学会で為されています。

さて、最終氷河期に入る前から、本土の陸地には、既に、大陸や朝鮮半島との陸続きによって、すでに別の縄文人の人々たちが大勢やって来ていたようですが、倭人天族は、どうやら二万年前頃から、九州や琉球の島々に住みつくようになったようです。
元々は南方アジア人種といってもよく、大陸から渡来したのではないということ、それが本書の結論です。

むろん、その間、倭人天族も中国大陸や後の朝鮮、特に朝鮮南部の人々との交流を通して、その一部が滞留し混血していった可能性はとても大きいでしょう。

そういう意味では、いわゆる倭人には、大陸や朝鮮の血が入っている可能性は大いにあるわけです。

だが、本書は、あくまで弥生人とは、基本的には、中国大陸や朝鮮から渡来した人々のことではない、という意味で大陸人ではないと言うのです。

何度も言いますように、なによりもここでいう弥生語という言葉の存在が、この主張の根拠を、なんといっても強固なものにしています。

これに関連して、高名な歴史学者である岡田英弘氏の「倭人=華僑説」に触れておきたいと思います。

岡田氏は「倭国の起源として、近年のシンガポールやマレーイシアのような中国の移民と現地住民とのハイブリッド状態である都市国家の連合体」のような世界を考えておられます。

「要するに、倭人の諸国とは、港や船着場を中心に発達したチャイナ・タウンの市場をとりまく集落でそこに倭人の酋長がいるという性質のものだと思う」としておられるのです。

九州西北の五島列島をはじめ近隣の島々や中国山東省東南や南朝鮮での、特に彼らを特徴づける「商業貿易的活躍」はたしかに近年の華僑の動きに酷似しています。そうした状況証拠からの推論だとは思われますが、やはり、言語上の証拠からしてそれはありえないのです。

 それは倭人、後の大和政権グループの使っていた日本語には彼らの存在を裏付ける痕跡が、やはり皆無だからです。

しかし、わたしも、もし倭人の使っていた弥生語の存在がなかったとしたら、岡田先生の華僑=倭人天族説も一つの有力な仮説として支持していたことでしょう。

それと、倭人天族と、南方から北上した縄文人とは別の大陸から入ってきたと思われる縄文人とも、DNAが同じで、元々、同じ人種だという説があります。

おそらく、それはヒマヤラで北方と南方とに分かれたグループが、再び日本で合流したということではないかと思います。

とにかく、縄文人と、ここでいう弥生人としての天族とは、人種的には同じである、と確認しておきましょう。

ただ、氷河解氷以後、倭人天族が海洋民として海に進出した何千年という長い歴史があり、縄文人が、内陸に住んで、山岳民として生活した長い文化の違いによって、共通語もむろんあるでしょうが、それぞれ別個の言語を形成させていったようです。

出雲のある地方や東北のズーズー弁とか、アイヌ語は、縄文人の言語です。

一方、やがて大和朝廷を樹立することになる倭人天族が使っていた言葉を、ここでは、便宜上、「弥生語」と呼び、彼らを仮に「弥生人」と呼んでいます。

それは、彼らが、弥生時代を特徴づける「稲作の伝播(でんぱ)」をもたらし、この時代に大きく台頭したという事実に基づくものです。

BC一千年前くらいの縄文時代の遥か昔から、倭人天族は、南鮮の後(のち)の任那(みまな)や、本土の南海や、瀬戸内海などに居住し、大陸との物流ルートを持っていました。

むろん、こうした物流にたずさわっていた海洋部族は、黄海、東シナ海ルートで活躍していた倭人天族だけではありません。

この天族に次いで大きい海人族(あまぞく)と言えば、日本海―辰(しん)韓(かん)(後の新羅)ルートの物流ルートを確保していた出雲族がいます。
それほど、たしかに出雲の勢力は強かったのです。

他にも、伊勢、伊豆あるいは日本海側には越(今の福井辺り)の海人族などがいましたが、この中ではさきの天族と出雲族が、もっとも勢力のある海人族であったようです。

この両海人族の二大勢力は、後に、大和と出雲として、対立的に捉えられるようになるのですが、こうした背景から記紀の「国譲り神話」も生まれたのだと思います。

倭人天族と越族の関係

さて、約紀元前五百年以後、弥生社会が、少しずつ日本の社会に波及しつつあった頃、朝鮮の南端、洛(らく)東江(とうこう)は、稲作水田の理想郷であったようで、その対岸の中国の山東半島には、越族という種族がいて、倭人天族とはどういうわけかうまが合い、天族は、越族との交流によって大いに栄えていたといいます。
越は、「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」の熟語で知られる中国のあの越(えつ)の国です。

倭人と越との関係は、氷河期にまでさかのぼります。
氷河期が終わるのは、一万七千年前位と推定されますが、二万三千年前頃が、日本の氷河時代の最盛期で、海面が百メートルも下がって、今の東シナ海や日本海は、湖に近い状態になっていたのです。

ところで、氷河期に海面が下がるのは、南極やグリーンランドなどが、凍結して、海の全体の約10パーセントほどが減るからですが、海面は40m-から140mも下がるといいます。

その頃、倭人天族は、東シナ海の北東の陸地にいて、北西には越族がいました。
両種族は、始めから良好な関係にあったようで、そのせいか、顔や体に刺青(いれずみ)をする風俗など、お互いによく似ているのです。だから、両種族の同族説まで出たくらいです。

解氷期がはじまると、海面はどんどん上がって、そこにいた越族や倭人天族も、海洋民として海に出て行き、自然と黄海、東シナ海を中心に活躍するようになったのです。
このようにして、天族は内陸に住むいわゆる縄文人とは一線を画する生活圏が出来あがっていったわけです。
実際、この天族と内陸の縄文人とは、少なくとも一,二万年もの間、全く生活圏を異にしていたわけですから、違った文化圏や言語圏が形成されるのは当然といえば当然とです。

弥生人の大陸人渡来説は誤りである

何度か触れましたように、今から約二千年ほど前、倭人天族が、五島列島を中心に、中国の山東半島、南朝鮮、壱岐、対馬、さらには琉球以下の南方方面にまで、その物流交易区域をひろげて発展していました。

これが出来たのも、ひとえに、海洋民族として培われた航海術によります。

そうした天族の物流組織は、洛(らく)東江(とうこう)水田にいる農民を、当時の日本の入口にあたる北九州の今の福岡の玄界灘(げんかいなだ)周辺や、さらには、瀬戸内海沿岸から大阪の淀川や大和川の流域にまで集団移住させて、日本の内陸に農業を大々的に展開させていきます。

その集団がいわゆる渡来人農民なのです。

こうした集団移住の事実をとらえて、「弥生人=大陸人渡来説」というものが出て来たのでしょうが、しかし、主体となってリードしたのは、あくまで、倭人天族であって、いわゆる渡来人自身なのではありません。

こうして、従来から土着していた縄文人も、これに刺激され、その技術転移によって、縄文人が弥生人へと変貌していったわけです。

決して大陸にいた弥生人なるものが、どっと日本に押し寄せて、弥生時代が到来したというわけではないということです。

 つまり、倭人として、中国にその存在を知られていた天族の持っていた機動力によって、渡来系集団がどっと入って来ることで、在来の土着の縄文人と混在するようになったのです。

やがて、彼らのリーダーでありスポンサーでもある天族の使っていた言葉が、国の成立とともに、彼らの共通の基本言語となってゆくのは自然の成り行きです。

ほぼ六世紀頃から徐々に天族語とでもいうべき弥生語の日本語を基調として、縄文語、韓語をも折衷しながら現在の日本語につながる大和言葉が形成されていったと思います。

とにかく、この弥生語という原日本語は、なによりも、最も近く最も交流のあった中国や韓国はもちろん、他の世界のいかなる言語とも似ていないという点をまず強調しておかなくてはなりません。

既に述べましたように、もし「弥生人の大陸人渡来説」が正しいとしたら、当然、その後の日本の弥生社会を、なによりもまず言語としてリードするはずですから、大陸からの渡来人の母国語である中国語なり韓国語、或いはツングース語などが、かなりの程度で、支配的な言語となっていたはずなのです。

しかし、その痕跡がほとんど見られない、という事実から考えて弥生人の大陸人渡来説の根拠は、まことに薄弱と言わねばなりません。

さて、古代天族を語るには、彼らが深くかかわった「稲作の伝播(でんぱ)」のことにふれなくてはなりません。

現在までの学問の成果をふまえて言いますと、中国の雲南ないし長江に稲作が始まったのが、およそ、紀元前五千年位前とすると、その稲作が、揚子江岸に広がるのは、更に、二千年を要して、紀元前約三千年前。
紀元前一千年前頃には、早くも、日本の東北の宮城に、稲(いね)籾(もみ)が伝播されていた形跡が発見されています。従って、この頃には、稲作が朝鮮半島には既に伝播していた、と見てよいのではないでしょうか。

この間、わが古代天族(こだいあまぞく)は、五島列島を拠点に山東半島より朝鮮南部に至る広大な交易圏を持っていました。

現に中国浙(せつ)江省(こうしょう)の会稽(かいけい)の遺跡には、倭人天族の文字が残っています。

紀元前五世紀の中国と言えば、「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」の故事で知られる、呉と越の時代です。

殊に、越は、揚子江から南の海岸に居住し、体に入れ墨をし、米と魚を常食とする海洋民族で、この点、越人の習俗は、わが倭人にきわめて似ています。

この江南の地には倭人が住んでいた、という伝承がのこっているほどです。

西暦AD28~100年ごろの後漢時代には、朝鮮半島には、南朝鮮の任那(みまな)、中国では江南地方に、「倭人」の拠点があった可能性がきわめて濃厚なのです。『倭・倭人・倭国(井上秀雄著)』

三世紀の末に書かれた、中国の正史「三国志」の中の『魏志』の「倭人」のことを記(しる)した『倭人伝(わじんでん)』には、

「この国の人々は、魚やアワビを捕える(とら)ことが得意で、倭(わ)の男子は、大人子供の別なく、顔や体に入れ墨をする。

衣服は、横幅の広い布で、ただ、束ねているだけで、ほとんど縫っていない。

人々は、稲や麻を植え、桑を栽培し、蚕(かいこ)を飼って糸を紡ぐ(つむ)。

竹の矢を使い、鉄や骨の矢じりを用いる。

何かをしようとする時には、必ず、骨を焼いて吉凶を占う。

亀(かめ)の甲(こう)を焼き、生ずる裂け目で、吉凶を占う」とあります。

これとほとんど同じような倭人天族についての記述が、弓前文書「委細心得」の中にもあります。

「もと、中津(なかつ)・弓前(ゆま)の輩(やから)は、山人(やまと)の島々にあり。

木の実を採り、木肌をすき、畑を耕し水にもぐりて漁をなし、タカミムツ大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を祀る。

時に、大君の質(ただ)しに答うるを以て、家の業となす」と。

中津(なかつ)・弓前(ゆま)の輩(やから)が、「大君の質(ただ)しに答うるを以て、家の業となす」とはここに書かれているのです。

魏志倭人伝のいう、「亀の甲を焼いて、生ずる裂け目で、吉凶を占う」という件(くだり)などは、「委細心得」の「大君の質(ただ)しに答うるを以て、家の業となす」と同じ内容であり、未来の行方を占断し、また、これに対処する能力に長け(た)ていたものを「中津・弓前の輩(やから)」と言ったのです。

 こうして、天族は、稲作(いなさく)伝播(でんぱ)の時代から、主に中国の越族との深いつながりで稲を仕入れています。

天族が、稲作物流の世界では、日本の他の海人族(あまぞく)をはるかに凌駕していたのには、実にこうした背景があったからです。

一口に、海人族といっても、当時、海洋を主な活躍の場としていた集団は、出雲をはじめ、越、伊勢、伊豆、東北など各地にいたことは既に述べましたが、稲や金属器を非常に有利に仕入れていたという点でも、北九州西岸の天族組織が、海人族の中では、最も抜きん出て強大でした。

一例をあげれば、出雲の海人族は、朝鮮の辰(しん)韓(かん)(後の新羅)とは親密な交易がありましたが、中国の越(えつ)とはなく、南方にもコネクションがないから、どうしても、北九州の天族から、稲を仕入れざるをえない。

天族は、ここでも圧倒的な差をつけ、莫大な利益を得ていました。

こうして、天族の組織は、南朝鮮と大八州を結ぶ対馬暖流の中の一大海上物流組織へとのし上がってゆくのです。

時は二世紀初頭の頃と思われますが、委細心得によれば、天族は、その海上国を天(あま)威(か)戸(ど)と称し、その長(おさ)を天(あ)大貴(おき)身(み)(弥生語で、ああ威大なるお方の意味)、すなわち大王(おおきみ)と言いました。
 
 「天皇」という名称の大昔の言いかたです。

これを「魏志倭人伝」は「倭人(わじん)、帯方(たいほう)東南(とうなん)大海(たいかい)の中(なか)に在(あ)り、山(さん)島(とう)に依り(よ)て国邑(こくゆう)を為す(な)」と記(しる)しているのです。

「山(やま)島(と)」は「委細心得」では、「山人」と表記し「ヤマイッピトゥ、ヤマイットゥ」が弥生語原音で、これが、後の「ヤマト、倭、大和」の語源です。

それは、「山島の仲間」という意味で、彼等は、おおむね「山島」の住んでいたからです。

ヤ   マ    イ   ピ  トゥ→ヤマイットゥ→ヤマトゥ
yau   mau   iu piu to
山(島)の   親しい  人 ―→山人

です。

 ところで、朝鮮南端の洛東江は、水田稲作にとっては、大変に理想的なところであったようで、山東半島の琅(ろう)邪(や)という所に基地を持つ越族(えつぞく)は、朝鮮沿岸にも住み、天族は持ち前の船による機動力を活かして越族と共同で洛東江の開拓を行っていました。

天族は陸地にいる縄文以来の人々に対し、稲作専用の農具はもちろん、甑(こしき)のような調理セットまでも調達し、また、籾(もみ)の流通を引き受けていたのです。

更には、江南ルートの籾を日本や朝鮮に流通させてもいました。

これが各地の海人族の販路にリレーされ、そうした日本各地の物流組織による技術転移を通して、陸にいた縄文人は、少しずつ、いわゆる弥生人へと変貌していったわけです。

近年、縄文時代には各地に稲作の痕跡があったことが発見されていますが、この伝播は、やはり、基本的には、以上述べた主に倭人の各「海人族」たちによってもたらされたものといってよいでしょう。

いずれにしても、こうした経過をへて縄文人が弥生人となることによって弥生時代を迎えることになったと見るのが正しい捉え方だといえます。

大林(おおばやし)太良(たりょう)氏(元東大教授)も、「弥生の稲作は明治維新と同じように、技術転移によって始まった」と指摘されていますが、「弥生時代を造った稲作農民が大陸からどっと渡来してきた」とする従来の「弥生人の大陸渡来説」の仮説は、学問の上ではもうすでに終わっているといってよいと思います。

しかも、この稲作には、やがて鉄文化が付随してきます。

鉄が、強い船を造るのにも、大きな役割を果たします。

稲と鉄を支配して強大となった倭人天族は、こうしてますます弥生社会を大きく推進する原動力の中心となっていくのです。

弓前文書「委細心得」が語る日本古代史 

 ――弥生語で解く空白の四世紀半ばから七世紀までの古代史――


ここで、いよいよ、弓前文書の歴史書「委細心得」本物の内容をお見せしながら、解説を加えていきたいと思います。

ホームページでは、本邦初公開です!!

委細心得」という弓前文書の中の歴史書には、日本の古代史と日本の神社神道の基盤ともいうべき伊勢、出雲、大神(おおみわ)、大和(おおやまと)、鹿島、香取の成立次第が記されています。

この文書が、いまだに謎につつまれているこれらの古社解明にとって、一つの画期的な糸口となることは間違いないことと思います。

ここに展開されている日本古代史は、あくまで、「委細心得」に基づく古代史です。

記紀が描く古代史とはかなり食い違うところもあります。

しかし眼光(がんこう)紙背(しはい)に徹し(てっ)て読んでいただければむしろその新しい視点によって新しい視界が開けてくると思います。

本文の特徴は、奈良時代に成立した日本語以前の、ここで弥生語と呼んでいる倭(やまと)言(こと)葉(ば)によって、古代史と神社神道を解こうとしているところにあります。
 
したがって、常に弥生語という視点を基本として古代史を考え神々を解明しようと試みています。

それが、わたしにとって、もっとも説得力があり魅力のある解明方法だからです。

そういうわけで、謎の「倭の五王」についても、それぞれの大君につけられた贈り名の弥生語からの解読を中心としてこれを明らかにします。
 

鹿島・香取・春日の謎を解く



では、早速本文に入ります。

まず、順番も原文通りにそのまま転載し、原文にそって解説を加えていきます。

委細心得」の出だしは、次のようにはじまっています。

「世々の弓前和(ゆまに)が、相伝えし秘(ひ)聞(ぶん)、誤りなきようここに記(しる)す。

カムロミタカミムツ大霊(おおひ)は、わが子、垂力(たぢから)の左右の珠(たま)、なれが子孫(うみのこ)に祀ら(まつ)しむ、と御祖(みおや)コヤネの霊事(ひこと)に、詔(の)り賜い(たま)き。

孫(まご)、中津(なかつ)と弓前(ゆま)に詔(の)り申す。

垂力(たぢから)の右は御雷(ぴか)、左は、布土(ふつ)の名あり、御雷(ぴか)は剣、布土(ふつ)は鞘(さや)と思え。

中津は、御雷(ぴか)を祀り、大霊(おおひ)の力を表す。

剣(つるぎ)使わざれば、常に鞘(さや)にあり。

ゆえに布土(ふつ)を祀り、常に、大霊(おおひ)の力を凝(こ)らすべし。

即ち、中津は常に表に立ち、大霊の御心に順(したが)う術を修め、弓前(ゆま)は内にありて、我の教うる大霊の力の数々を議(し)り、その法を修(おさ)べし。

この分限を誤たば、神罰を心得べし。世々の弓前(ゆま)、賢(かしこ)み伝えたり」

弓前文書の歴史書である「委細心得」は、まず、宇宙神であるタカミムツ大霊(おおひ)が、中津(なかつ)・弓(ゆ)前(ま)一族(後の中臣氏)の祖であるアメノコヤネに、「お前の孫の中津(なかつ)・弓(ゆ)前(ま)の兄弟に、わが子タヂカラの左右の珠である宇宙の天と地の力、すなわちピカとプツの珠(たま)を、それぞれ、祀らせてやろう」という神託から始まっています。

「霊事(ひこと)」とは、「御神託」のことです。

アメノコヤネに宇宙神であるタカミムツ大霊(おおひ)が「御神託」を下したということです。

ピカは、後の鹿島の「タケピカツチ」の神、プツは、後の「プツヌチ」の香取の神です。

ここから倭人天族一行が東へとやってきて鹿島・香取として成立する以前に、ピカとプツの神は、長い間、「倭人」天族の本拠地であった九州の地で大昔から祀られていていた、ということがわかるわけです。

ところで、「始めて、鹿島の神を祀るアメノコヤネの孫」という伝承は、実は、鹿島神宮にも古くから残っています。

ただし、その孫の名前は、「天之(あめの)種子(たねこ)」と、別名になっています。

ところが、この「種、タネ、」を、弥生語で解くと面白いことがわかってきます。

「タ,ta」とは、タカミムツやタヂカラの「タ,ta」です。

後で何度か、この「タ、ta」についての用例がでてくると思いますが、要するに、この両神のもつ「宇宙根元の無限エネルギー」を弥生語一字で表せば、この「タ,ta」という言葉になるのです。

それを「ネ、nai」するとは、どういうことかと言うと、「ネ,nai」は、「秩序」を意味するナ行のうちの「秩序の媒介・転換」を意味する言葉ですから、「タカミムツの子、タヂカラの左右の珠、即ちピカのとプツの神を媒介転換する者」という意味になるのです。

これが、「種子(たねこ)」という弥生語からわかる意味です。

つまり、「種子(たねこ)」という名前自体が、「ピカとプツの神を中執り(なかと)持(も)ちて祀る(まつ)者」の意味を持っているのです。

種子という漢字は当て字です。

たねこ(tanaixou)という古代の弥生語に漢字を当てたのです。

「中臣」というのも、「神を中執り(なかと)持(も)ちて祀る(まつ)者」の意だとすると、「種子(たねこ)」と「中臣」は、結局、同じ意味だということになります。

一般には、タカミムツの子の垂力(たぢから)とは、記紀では、「天の岩戸」をこじ開けた怪力無双の「手力(たじから)神(のかみ)」として知られていますが、タカミムツとタジカラを親子関係とする記述は文献としてはみあたりません。

だが、「委細心得」では、宇宙大のエネルギーである宇宙神、タカミムツの神の子が「垂力(たぢから)」で、それを、地球レベルで天と地の力として左右に分けたもの、それが、鹿島の神、タケミカツチの「ピカ」であり、香取の神、フツヌシの「プツ」だというのです。

この辺(あたり)も、「タヂカラ」について記紀の伝えるところとは、かなり違っていますが、記紀が、描いて見せる「怪力無双」という捉え方は、弥生語の視点からみても、まあ当たらずと言えども遠からず、といったところでしょうか。

タヂカラの神については、記紀にはこれ以上のことはなにも記さ(しる)れていません。

むろんタジカラの神とタケミカツチとフツヌシとの関係については、記紀にはどこにも書いてありません。

だから、これまで、この両者の関係は理解できませんでした。

ところが、「委細心得」には、このようにはっきりとこの三神の関係が示されています。

そしてタカミムツピ→タヂカラ→ピカープツの弥生語が理解できれば、この関係もはっきりとわかるのです。

ところが、この関係を示す配置が、実は、奈良の春日(かすが)大社(たいしゃ)の境内に残されていました。

この発見のきっかけは、所用で奈良興福寺に訪れた際、現在も橋本町の興福寺所有地に、春日大社の境外末社として祀られている「手(た)力雄(ぢからお)神社(じんじゃ)」を見つけたことに始まります。

わたしは既にタジカラとピカとプツの関係を委細心得によってよく知っていましたから、まずこの事実に驚きました。

とすると、春日大社の中にも手力雄神社は祀られているのではないかと思い調べてみると、やはりありました。

それもなんと、とても意味深い配置で祀られていたのです。

一つは本殿の御垣内にあります。

春日大社の本殿は四つの神殿から成り立っています。

第一神殿、タケミカツチ、第二神殿、フツヌシ(またの名をイワイヌシ)、第三神殿、中臣氏の祖のアメノコヤネ、第四神殿、ヒメ神が祀られています。

その御垣内の第一神殿側の向かって右にこれらの神殿を見守るように、なんと「手力雄神社」が祀られているではないですか。

わたしは、この祀り方を見た時のうれしいショックを今でもよく覚えています。

古来、この配置については、謎として誰も答えられなかったとお聞きしています。

それはそうでしょう。

わからないはずです。

タジカラとタケミカツチとフツヌシの関係はこれまで全く分かっていないからです。

その配置への答えは、「手力雄神は第一神殿、第二神殿の親神であったから」です。

それはまさに委細心得が残す、タジカラとピカとプツの関係をもっとも象徴的に暗示する配置だったと言えるのです。

二つ目の手力雄神社は、春日の若宮の御垣内の南、向って右斜め後方に祀られていました。

一つの神社に合計三社の同じ末社がある、というのはそこに何か重大な意味があるはずだと考えなくてはなりません。

しかしながら、この謎の関係は、委細心得と弥生語でしかわからないと思います。

このタケミカツチの親神がタジカラであるという伝承は、実は、鹿島神宮の氏子区域である鹿嶋市津賀という所にも残っています。

当地では、大昔から、近津神社は鹿島神宮のタケミカツチの神の親神様であるから、鳥居は鹿島神宮より大きいものでなくてはならないとし、実際に明治の初めまでそうした巨大な一の鳥居があったといいます。

現にその礎石跡は今も残っています。

今でも、この神社で正月に配られるお札には「近津大神宮」と書かれています。

鹿島が「鹿島大神宮」ならその親神様も「近津大神宮」であってよい、という発想だと思いますが、この表現自体はいずれも明治以前のものだと思います。

同じく、タジカラの子である香取の場合は、そのタジカラの社は、香取神宮の摂社(せっしゃ)、大戸(おおと)神社(じんじゃ)として祀られています。

ここでも、親子という関係の伝承は消えていますが、摂社というのがかすかにそのことを暗示しています。

次に、「世々の弓前和(ゆまに)が、相伝えし秘(ひ)聞(ぶん)」のうちの、「秘聞(ひぶん)」という表現に、触れておきます。

「秘聞」とは、「秘密にしなければならない言い伝え」です。

「表に出してはいけない伝承」、それが、この「委細心得の中にはあるんだよ」ということです。

現に、伊勢をはじめ、委細心得に記されている出雲、大神(おおみわ)、大和(おおやまと)、鹿島、香取などの創建の由来は、記紀やそれぞれの社(やしろ)の伝承とはまるで違っています。

例えば、伊勢の外宮(げくう)の神の鎮座の由来に関しては、記紀の伝承と委細心得とでは、かなり異なっています。

記紀からでは、この外宮のトヨウケの神の正体は、よく分かりません。

天照大御神の「御饌津(みけつ)神(かみ)」となってお仕えする神のように見え一段神格が低い印象を与えています。

中世、代々の外宮の社家であった度会氏(わたらいし)は、この古事記の伝える外宮観をとても嘆き、度会神道を展開した時代がありました。

それはともあれ、記紀や伊勢神道に伝わる伝承からでは、この両宮の関係はわからない、という印象はどうしてもぬぐえません。

それから、日本書記では、天照大御神は日神であり太陽だ、と言っているのに、古事記では、太陽のように光り輝く存在であるが、太陽なのではない、というニュアンスを示しています。

伊勢の神宮側では、現在でも、後者の古事記の説に従っておられるようですが、その論拠が、また、曖昧で、一応「イザナキの命の禊(みそぎ)から生まれた天照大御神」という神話に依拠しているようです。

しかし、もし、後者の説を取るとなると、実は、おかしなことになってしまうのです。

何故かと言いますと、神社神道は、自然の中に神をみる自然宗教と言いながら、世界の中で日本だけが、太陽という威大な自然だけは祀ることがなかった唯一の国である、ということになってしまうからです。

しかしこの問題は神社界では放置されたままにされています。

誰も触れたがりません。

やはり、真実の追及よりは保身や出世ということでしょうか。

実際の学者の世界に似ています。

ですから、何故、トヨウケを祀る外宮の方から先に祭儀をおこなうのか、という「外宮先祭」の意味も、まるでわかっていません。

しかし、委細心得と弥生語からみると、両宮の関係は、はっきりしますし、以上の疑問もすべて氷解します。

太陽の神霊である太陽神、天照大御神のエネルギーが、地に降り注ぎ地から湧き出るそのエネルギーこそが、トヨウケの神なのであり、そのエネルギーが万物を生成化育するからこそ、別名、「御饌津(みけつ)神(かみ)」ともいうのだ、ということがはっきりわかってくるのです。

別名、ウカの御魂(みたま)として、「稲荷」の神でもあります。

トヨウケの神とは、はっきり言えば、天照大御神の分身・分霊なのです。

委細心得はこのことを「オオヒルメ大霊(天照大御神)が豊受の神を<わが生母(ウカノ)珠(タマ)>と言って分霊(わけひ)であること」をはっきりと伝承しています。

従って、「外宮は内宮より一段神格が下がりますが・・・」(2010年の時点での伊勢の神宮の広報課の見解)などといった見方は間違いであるということが分かります。

分かっていない人の言うことです。

詳しくは、後に、オオヒルメムチ、トヨウケ、ウカなどの言葉の解明によって明らかにしたいと思います。

これらの言葉はみな弥生語だからです。

また、断続的ではありますが、六世紀近くまで続いた九州と大和との二王朝制、また、難波と九州と大和のそれぞれで一王朝制であった時代のことなど、記紀編纂時においては、当然、タブー事項であったはずですから、これも、当然、さきほどの「秘聞(ひぶん)」に属しています。

何故なら、記紀における日本古代史の記述には、「万世一系のスメラミコト」という中心理念への疑念を、少しでも起こさせるような一切の要素は、始めから、排除していくという確固たる編集方針があったにちがいないと推測できるからです。

このことを一番強く主張したのは、聖徳太子勢力であったと言われています。

とにかく、当時の中国に比肩しうる「統一された強力な日本」を建国することは、当時の太子たち朝廷にとっての至上命令であったのでしょう。

飛鳥・奈良朝以前のわが国は、「倭(わ)の五(ご)王(おう)」時代にみるように、中国に対しては、いつも朝貢する側にあって臣下の礼をとり、中国より一段低い立場にありました。

それを、聖徳太子時代になると、「日(ひ)出る(いず)ところの天'子、日没するところの天子に書をいたす。つつがなき'や・・・」という書簡を送って対等、いやそれ以上の立場に立とうとします。

追いつき追い越せというわけです。

そして、こうしたことを推進した絶頂期が、天智天皇の時ではなかったかと思います。

なぜなら、この時、かつて経験したことのない国家存亡の危機に直面したからです。

新羅・唐連合軍と戦った朝鮮の白(はく)村江(すきのえ)で、日本軍は完膚(かんぷ)なきまでに大敗北し、文字通り、日本国壊滅の危機に直面しました。

そして新羅・唐連合軍は、すでに倭人天族によって整備されていた南朝鮮→九州→瀬戸内海→難波ルートの海路を使えば、、簡単に奈良の都を攻めることができました。

少なくとも天智天皇の朝廷側はそう想定しておびえていたようです。

今でも残っている九州北西岸や瀬戸内海に築いた、おびただしい数の防御のための土塁跡がそれを如実に物語っていますし、天皇が奈良を捨てて大津に遷都したのもそのためです。

しかし、この時、天は日本に味方したのです。

獰猛にして強大な高句麗軍が、突如として南下して唐の国を脅かし始めたからです。

唐軍はただちに踵(きびす)を返(かえ)して北上し、高句麗と対峙(たいじ)します。

そのすきをぬって、新羅も、この時とばかりと、朝鮮全土の制覇に乗りだしましたから、その矛先を日本に向けてくる余裕が全くなくなってしまいました。

こうして日本は未(み)曾(ぞう)有(う)の国家の危機をまぬがれることができたのです。

以後、日本は、中国などいかなる近隣国にも負けない強力無比の建国をめざす決意を新にしたはずです。

そのためには、なにはともあれ、なんとしても「<天皇の超越性>を中心とする強大な国家建設の理念書」の構築が不可欠だと考えたにちがいありません。

こうして古事記、日本書紀という建国の理念書の結実の下地が出来上がっていきます。

そして、「万世一系の天皇」への大前提だけは、第一に押さえておかなくてはならない最大の国是にしたと思います。

これは推測にすぎませんが、九州・大和の二皇統の存在のことも崇神天皇による大和におけるハツクニシラスのことも、<天皇の超越性>を危うくするものではないけれども、万全を期しこれらをあえて秘密にしたのではないかと思います。

ところで弓前史観は、景行・崇神天皇以来、断続的な二王朝制を主張していますが、かといって決して「万世一系」を否定しているわけではありません。
だが記紀編纂の立場からすれば、万世一系への疑念はどんな小さいことであっても、これを排除しなければならないと考えていたのではないでしょうか。

二王朝制は、そうした疑念をどうしても抱かせてしまうのでしょう。

だから二王朝制は初めからなかったことにしたい。

そういうことだと思います。

弓前文書の伝える歴史では、四世紀半ばから五世紀後半までの時代までは、しばしば九州と大和との二王朝制をとっていたとしています。

問題は、考古学的、歴史的事実から見て、どちらの立場が真実で辻褄があうのか、どちらが腑に落ちる整合性を持っているか、ということだと思います。

この問題の決着には、今後の研究に待ちたいと思います。

いずれにしても、それぞれが仮説といってよいものなのですから。

戦後六十年余年を経て、ようやく「わが国にのみ神風が吹くといった独りよがりの大国意識」を抱いていた戦前の行き過ぎた史観の足かせが解かれ、今や真実を自由に探求できる時代になりました。

そして人々は真実(ほんとうのこと)をこそ求めるものです。

またそうでなくてはなりません。

虚偽や嘘からは、結局、ロクなものは生まれてきません。

この場合の「人々」とは、ひとり日本だけではなく韓国、中国の人々をも含んでいます。

言うまでもないことですが、このことは神社神道においても、例外であってはならないです。

事実に基づかない、自国に都合のいい、行き過ぎた「大国意識」は、結局は、その国の為にもなりません。

そういう誤った愛国心は、他国からひんしゅくを買うだけではなく、いたずらに対立を生むだけです。

事実の上に立って真実をもとめる科学的態度こそが、古代史探究においても大切です。

次に宇宙最大の神と目されるカムロミタカミムツ大霊(おおひ,古事記では、高皇産巣日、タカミムツビ)から、その子、垂力(たぢから,古事記では、天手力男、アメノタヂカラ)、そしてその左右の珠であるピカ(古事記では、建御雷、タケミイカヅチ)と左のプツ(古事記では、経津主、フツヌシ)、という関係が示されます。

すなわち、

''ピカ(御雷,ぴか、剣、右、鹿島神宮は、中津(なかつ)一族が祀り、

プツ(布土、ぷつ、鞘(さや)、左、香取神宮は(弓前(ゆま)一族が祀る''

という関係です。

これで、これまで、全くの謎であった鹿島・香取の神の実体が、いよいよ鮮明になってきたと思います。

まずタカミムツ大霊(古事記の高皇産巣日)とは、何かということになりますが、それは宇宙にビッグ・バンが起こって、アマノマナカヌチ(古事記の天之御中主)から「物質を生みだそうとする意志」であるカミムツピ(古事記の神産巣日)を経て発現した、今の世の宇宙大の神のことです。

弥生語ではこのような意味になるのです。

従って、現在、われわれは、このタカミムツの時代に生きています。

この神についての弥生語の解説は古代語のところで行います。

その分霊がタヂカラ(古事記の天手力神)で、更にそのタジカラの左右の珠のうち右(向かって左)が、天の力のピカ珠で、これを象徴するものが剣であり、鹿島神宮に祀られている神です。

鹿島の神がなぜ「剣」であるのかは、弥生語「プツ、putsu」という言葉からきています。

この言葉についての解明も、今は煩雑となりますので古代語ところでします。

そしてこの神を祀る種族を、中津(なかつ)一族といいました。鹿島を守る後の中臣氏の一族です。

その剣をおさめる鞘(さや)に象徴されるのが、左(向かって右)のプツ珠です。

おさまるところは地であり、従ってそれは地の力です。香取神宮に祀られている神です。

この理は、利根川をはさんで、地中を通して鹿島と香取が要石でつながる、という伝説となって受け継がれています。

むろん、霊的につながるということです。

香取を守る一族を弓前(ゆま)一族といい、この鹿島と香取の区別は厳密に守られていました。

以上から、鹿島と香取の関係は、掛け軸にすれば、次のような掛け方にするのが正しいということになります。

''
(左、すなわち向かって右)香取神宮 (鞘、さや)

(右、すなわち向かって左)鹿島神宮 (剣、つるぎ)
''

これを縦に掛けてください。これが、鹿島・香取の正しい掛け軸の掛け方です。

(''右、すなわち向かって左)は、能動、男性原理、陽、表に立つ、

(左、すなわち向かって右)は、受動、女性原理、陰、裏に支える
''

だから、ここでは、ここでは、向かって右が上位、向かって左が下位という神社祭式上の縦の関係はありません。

一本の電池の左右は、陰陽の関係にありますが、そこに上位、下位の関係はあるでしょうか。

働きの違いがあるだけです。

こうして、天手力男神が、鹿島の親(おや)神(がみ)とする伝承(鹿嶋市の近津(ちかつ)神社)や、香取の神の奇(くし)御霊(みたま)が高皇産巣日だとする言い伝え(香取市の側(そば)高(たか)神社)も、重要な伝承であったということになります。

これを自然科学的に言えば、太陽系外からやってくる宇宙大の天地の力とでもいうべきもの、いいかえれば「宇宙精気のエネルギー体」、それがピカ珠とプツ珠、すなわち鹿島・香取の神の実体であり、そうであればこそ、太陽神である天照大御神にとっても最も頼みとする力となります。

自然物理的に言えば、太陽のエネルギーも宇宙のエネルギーあってのことだからです。

したがって、地を「安国(やすくに)と鎮める(しず)」のに、この鹿島・香取両神以上の力は、この世にはありえません。

であればこそ、最強という意味が付与され、武道の神ともなるのです。

また、そのエネルギーは、物質界としては、日毎、東の空から立ち現われます。

鹿島の神は、弥生語で「ソラピカ」(神文、第2章第二節)といいます。

次の意味をもっています。

''
    ソ      ラ      ピカ

    S o      ra      pi ka
 (何もない所で) (躍動する)  (宇宙精気の力)
 (東の空の)
''

この神は、日毎「東の空からやってくる宇宙精気の大エネルギー」であるので、鹿島に祀られる以前の九州時代にも、やはりその地の東に祀られていたはずです。

ですから、常に、毎日、まずはじめに「東の空」から出てくるエネルギーという意味が「ソラピカ」にはあります。

倭人天族が日本本土に上陸し大和に政権を樹立する過程で日本全土の中で伊勢をはじめ神祀りを天照大御神(委細心得では、ピルメ大霊(おおひ)という)の命のもとに定めたわけですが、「ソラピカ」の祀られるべき所は、実に日本全体の東の空の下でなくてはならなかったのわけです。

それが東路の果ての地である「鹿島」が選ばれた理由です。 

そして、ここから、最強最大の「ソラピカ」の宇宙の力が全国に発信されることを、その昔「鹿島立ち」と言ったのです。

これが本来の「鹿島立ち」の意味なのですが、このことは弥生古代語を通してしかわかりません。

こうして弥生語を通して見ると、日本神道の神々がいかに自然物理的存在であるかがだんだんと見えてくるはずです。

このことは、しかし、神々を単に唯物論的に見るということではりません。

あくまで不可視の、物理学者、ディヴィッド・ボームなどの言う暗在系の次元を含んだ自然物理的存在であるということです。

さて、日毎、東の空から立ち現われるエネルギー、これを弥生語で、別名、ピタチ(pitatiu)といいます。

''
  ピ         タ      チ(ヒタチ、常陸)
  Pi         ta          tiu
(生命根元精気の)   (限りない) (エネルギーの流れ)
''

その力の発するところから、古代の人はこの地を常陸(ひたち)の国と伝えました。

更に、鹿島神宮の場合、御神座は東を向いています。

当然です。

ピカの大神のエネルギーは、日毎、東から発し、香取に留め置かれてチャージされ、必要に応じて西を向きふたたび鹿島から全国の神々へ「鹿島立ち」して、その宇宙大のエネルギーが日々配信補給される暗在(あんざい)の霊的仕組みとなっているからです。

鹿島と香取の創建



委細心得」本文に戻ります。

「もと中津(なかつ)・弓前(ゆま)の輩(やから)は、山人(やまと)の島々にあり。木の実を採り、木肌をすき、畑を耕し、水にもぐりて漁(りょう)をなし、大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を祀る。」

「大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を祀(まつ)る」とは、要するに、タカミムツ大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を、天の力と地の力として二つに分けたものを、ピカとプツの神々とそれぞれ呼び、これを祀ったということです。

後の鹿嶋・香取の神です。

繰り返しますが、中津・弓前の族(やから)が、この神々を祀っっていました。

中津・弓前の族(やから)の重要な仕事は、「大霊(おおひ)の垂力(た'ぢから)を祀る」重要な役職と、「大君の質(ただ)しに答う'るを以て、家の業(わざ)となす」ことでした。

この本来の、九州時代の中津・弓前一族の役割のうち、第一の「大霊の垂力を祀る」は、後に鹿島・香取両神宮を創建し祭祀することによって実現します。

今でも、鹿島・香取の神職は中津・弓前(中臣・大中臣)出身の社家が残って祭祀を受け継いでいます。

第二の「大君の質しに答えるをもって家の業とする」は、「鹿島の中津すなわち中臣氏から藤原氏となって表に立って国政に参加することによって、現代に至るまで、古来からの中津・弓前の役割を果たしています。

このように元々、大王側近の要職の地位にあったといってよいでしょう。
 
藤原氏の先祖は鹿島にやってきた中津一族であり、この一族は、九州時代から大王側近の祭祀氏族でした。

鹿島にやって来てからも、その中の中津一族から、再び値名と一緒に飛鳥の時代あたりから中央の天皇側近としてお仕えするようになったというのが中臣氏台頭(たいとう)の真相です。

ところがこれを知らない多くの学者は、中臣氏は、物部氏や蘇我氏や大友氏などを押さえてにわかに台頭した「成り上がり」のように捉えています。

中央で勢力を得た中臣氏があとからやって来て物部氏の祀る「鹿島・香取」を乗っ取るという構図です。

とんでもない、大間違いの説です。

後からやって来たように見えただけです。

なにしろ、当の藤原氏自身が、自分たちの出自を隠したからです。

第一に、石上神伝と称している「一二三の神言」は、弓前文書の中の「神文第四章第三節」のパクリであり、しかも、間違って伝承されています。

物部の「一二三の神言」は、「一二三四五六七八九十百千万」のただの増殖を表現しているだけです。

一方、本物の「一二三の神言」は、エネルギー保存の法則とエントロピーの法則の織り成す「タカマパル(威大な力の輪廻流転)」する宇宙の意志の神秘を表現したものです。

それと、弓前文書の秘聞なることを知っていた一部の藤原氏や中臣氏にとって、「一二三の神言」に関しては、口を閉ざさざるを得なかったことは、すでにご存じのとおりです。

また、大鏡という歴史書には中臣鎌足が鹿島神宮の社家出身のように書かれていて、藤原氏の出自のことがわずかに残っていますが、この説も伝説の域を出ていません。

それもそのはず、中臣氏藤原家そのものが自分の出自を極力口をつぐんだからです。

自分たちの出自を明らかにすることは、弓前文書の言う「秘聞」を明らかにすることであり、せっかく作り上げた記紀の新しい国家建設のための理念書を損なうことになりかねないからです。

そういうことから、今度は、いまや、鎌足が、白村江の戦いの頃、百済の皇太子、豊璋(ほうしょう)の成りすましなどという妄説がまことしやかに勝手に仮説として通るくらいに、自分の出自を秘密にしてきたのです。

ところで、大君は大王とも言い、後に天皇と呼ばれます。

天皇という言い方も、一般には七世紀の天武天皇時代から使用されるようになった、とされていますが、わが国の「大王」に対して「天皇」という称号が、はじめて使用されたのは、厳密に言えば、これより前の五百九十七年に、日本にもたらされた百済が編纂した「百済本紀」においてです。

百済本紀は、百済の王子、阿佐が来朝した際にもたらされたものですが、日本との国交回復によって、対新羅戦を有利にしようと 日本に迎合し、日本が喜びそうな記事に歴史を改変したと言われるあまり評判のよくない歴史書です。

さて、大王はしばしば重大な決断をせまられます。

大王といえども、いや、大王だからこそ、重大なことでどう決断したらよいか、迷うことがしばしばあったはずです。

そうしたとき、まずは、臣下にはかって考えさせたり議論をつくさせます。

これは現代でも同じでしょう。

それでも決しかねる重大なことがあったとき、やはり、神意を伺う方法がとられました。

すなわち、神の声を聞く、あるいは占いによって神意を判断する。

これを主に担当したのが中津・弓前一族の中の中津(なかつ)身(み)という人物でした。

これが一族の選ばれたリーダーとなり後の「宮司」にあたります。

鹿島から、後に都に上った常磐(ときわ)ー可(か)多能(たの)古(こ)―御食子(みけこ)―鎌足(かまたり)―不比等(ふひと)の中臣・藤原氏となった人々はすべてその中津身でした。

現在の宮司とは異なり特殊な能力を発揮した一種の霊能者です。

大王側近であった九州時代からの一つの伝統と言ってよいでしょう。

神意を伺う方法は、二つありました。

一つは亀甲(きっこう)のひび割れによる占断です。

さらに古い時代には、鹿の肩(けん)甲骨(こうこつ)のひび割れで占

中津・弓前による占いの伝統は、九州から鹿島へ来てからも受け継がれ、後に朝廷や幕府へも伝えられた「鹿島の事触れ(ことぶれ)」の「鹿島暦」として受け継がれていきます。

鹿が、鹿島の神の神意を告げる神の使いとされるのも、遥かに遠い昔の九州時代、鹿が占いに使われた故事に基づくものです。

しかし、後世は、より使いやすいという理由から、もっぱら亀甲が使われるようになります。

もう一つの神意を伺う方法、それは、直接、「神とコンタクト出来る人」による方法です。

神と交通ができるシャーマンとして史上に登場する人物と言えば、卑弥呼(ひみこ)や神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)そして崇神天皇に従って三輪に同行した、おばのヤマトモモソヒメなどが有名ですが、何故か、女性が多い。

陰陽でいえば、男性は陽、女性は陰、現実世界は陽、神の世界は陰という関係にその秘密があるのかもしれません。

であれば、神懸る男性とは、女性的資質の多い男性ということなるのでしょう。

こうした女性シャーマンは、後に形式化しますが、伊勢には斎宮、賀茂には斎院、鹿島・香取には物忌(ものいみ)という女性シャーマンがそれぞれいました。

現在、この形は伊勢だけに残っています。

次に移ります。

 「美山(みま)の地に入り(り)、しろしたまえる国の大君の姫神、神懸りありて、日留(ひる)芽(め)大霊(おおひ)の霊事(ひこと)詔(のり)あり、宣(の)りたまわく。」

ここでいきなり「美山(みま)の地に入(い)り、しろしたまえる国の大君」という日本の古代の現実の歴史が登場します。

「美山(みま)の地」、それは、すでに申しましたように、奈良の三輪の地のことです。

現地の土着の人々は、この地方を「ミワ、三輪」と言い、やってきた天族は、この地を「ミマ、美山」と言ったのです。

この「ミマ」という言葉についても、歴史学界では、いろんな説がありわかっていません。

大和政権韓国人説では、韓国南部の「任那(みまな)」からとった説などとしています。

弥生語を使っていた崇神天皇以下天族の言葉です。

この地に入った大君だから、「ミマキイリヒコイニエ」というのです。

「ミマキイリヒコイニエ」とは、第十代崇神天皇のことです。

このおくり名は、記紀にのっています。

このように、「ミマキ」の意味に関して、歴史学や国語学の世界では、いまだに決着がついていませんが、弥生語から解読すると次のようになります。

ミ   マ   キ  イ   リ   ヒ   コ   
(美山(みま)の地へ) (入られた)  (お方)

「ミマ」は今述べたとうり、「キ」は弥生語では「キ、ki、岐」で、k行は、元々、「事物の変化にたいする人間側の心情を表します」が、この場合のキは、「際立って目立つ所」の意味の「キ、ki」です。

きわ立つ、のキ、すっきり、のき、です。

ミマ、すなわち当時の「三輪地方」が「際立つ所」であったことは明らかで、当時、博多を中心とする九州西北地方を除けば、日本の中で三輪地方は三輪一族よって最も栄えていたところです。

「そこへ入ったお方」が「イリヒコ」の意味です。

では、「イニエ」とは、いかなる意味でしょうか。

 イ        ニ       エ
 iu      niu      yai
 親       和        重
(親しみありて)(丸く治める)  (幾重にも)
 
 で、「イ、iu、親」は「イツァナキ・イツァナミ」の「イ、iu」と同じで、「親しくする、接近する」意味。

「ニ、niu、和」は、「秩序」を表すn(な)行(ぎょう)の「ニ、niu、和」で、「組織体、秩序体で調和している」意味になります。

それが「エ、yai、重」だから、「積み重なった状態で、幾重にも」の意味です。

 ところで、正史(せいし)「日本書記」は、日本の国は約二千六百七十年前頃の神武東征によって大和が始まり、神武天皇が初代の天皇として即位されたとしています。

すなわち、「ハツクニスメラミコト」の誕生です。

 ところが、このことは先に少し触れましたが、その日本書記が、国を始めた「ハツクニスメラミコト」として、崇神天皇の名を挙げているのです。

つまり、二人の「ハツクニスメラミコト」がいます。

紀はこの矛盾をそのまま放置しています。

これが日本書記のとる基本スタンスなのです。 

 一書に曰く(いわ)として、異説であっても矛盾していても伝承そのまま記述しています。

後は後世の者が解決してくれ、といわんばかりの態度をとっているように見えます。

現に「後(のちに)勘校者(かんがえむひと)、知之也(しらむ)」としているのです。

「後世、調べて考える者がこれを明らかにするだろう」というわけです。

 では、後世の者の一人として、弓前史観に基づいて、このどうみても矛盾と思えるものを解決しその整合性を考えてみたいと思います。

 弓前文書によれば、大和(三輪)政権を打ち立て一応の統一国家の体(てい)をなし国を始めたハツクニスメラミコト(御肇国天皇)とは、崇神天皇です。

 これを証明する論拠は二つあります。

 一つは、ミマキイリヒコイニエという崇神天皇の弥生語名解読からの論証です。これはすでに申し上げた通りです
 もう一つの論拠。
 それは、崇神天皇の漢字のおくり名です。

「御肇(はつくにしらす)国天皇(すめらみこと)」、クニを始める、の「クニ」は、第一に、いかにも古代弥生語そのものなのです。れっきとした弥生語です。

クニ(xuniu、国)とは、クニ(xu,食べるための)とニ(niu、小さな秩序体)の意で、当時の「稲作の為の村落共同体」であるクニ(国)が使われていて、「御肇(はつくにしらす)国天皇(すめらみこと)」という表記は「当時のハツクニシラススメラミコト」を実によく表現していると思います。

 一方、神武天皇も同じく「ハツクニシラススメラミコト」ですが、問題はその表記です。

同じ「ハツニスメラミコト」でも、神武は「始馭天下之天皇」(紀)とあり、この「天の下馭(しろし)めす(天の下治ろしめす)」という表記は、崇神の「御肇國天皇」に比べ、五世紀の雄略天皇の時が初見であるように、ずっと後世の、恐らくは記紀成立時の命名の可能性が非常に高いと言えるからです。

要するに、倭人天族にとっては、紀元前660年ぐらいに遡ることができる大君はたしかに存在したわけですが、記紀編纂は、これを神武天皇と定めたのだと思います。

「始馭天下之天皇、始めて天の下をしろしめす天皇」とある、この「天の下」という表記は本来、我が国古代の弥生語の表現にはありません。

完全に中国文献の強い影響下で発想された表現であり、いかにも奈良時代の表現なのです。

後世につけられたであろうという印象はどうしてもぬぐえないのです。

しかしながら、神武天皇は九州時代の大君で、大和朝廷の母体としての倭人天族の「初代(はつくにしらす)の大倭(すめら)王(みこと)」と考えれば、よく辻褄が合い皇統連綿とつながります。

これを牽強(けんきょう)付会(ふかい)(こじつけ)とは言えないと思います。

 ですから、弓前文書の史観からみても、何度も言うように、いわゆる皇国史観のいう皇紀2673年(平成23年時)は必ずしも間違いとは言えないと思います。

ただし、大和政権を打ち立てたハツクニスメラミコトはあくまで崇神天皇です。

そして明治の世になって、紀元前六百七十年ごろ倭人天族であった初代の大倭王たる皇祖、神武天皇を橿原神宮にあらためて祀ったということ、これが弓前史観から見たとらえ方です。

では、この「国の大君」である崇神が、三輪の地に入ったのは、いつ頃のことか。

ここでは、この委細心得をはじめて文字化した弓前値名(ゆまあてな)の次の表現を、その時代設定の論拠としています。

値名(あてな)は、委細心得のなかで、崇神天皇の時に、伊勢をはじめ鹿島・香取など主要神社が創建された時から数えて、自分までで、「因りて来れる十三代」だ、と記(しる)しています。

つまり、その時から値名の時までで十三代が経過しているというのです。

香取出身の弓前値名が、七世紀の六百年頃の聖徳太子時代の人で、鹿島出身である中臣可(なかとみのか)多能(たの)古(こ)と一緒に聖徳太子の国史編纂の有力なブレーンとして都にのぼったことは、既に述べました。

一世代年数を、約二十年と計算して、値名まで十三代だとすると、二十年×十三代=二百六十年で、六百二十年(値名の時代)-二百六十年=三百六十年頃となるのです。

そして三百六十年の頃は、二千十四年(現時点)-三百六十年=千六百五十四年となり、崇神の時代は、今から、およそ千六百五十年前の、紀元三百六十年の頃となります。

鹿島・香取の創建が、今から千六百五十四年前位に、崇神天皇が三輪入りした少し後だとすると、出雲や伊勢、鹿島、香取が創建された時代はおよそ三六〇年から四〇〇年の間と見ることができます。

それは、また、出雲や鹿島の宮司家などに伝わる家系図の年代ともおおむね一致する、という点から言っても、五十年から百年位の誤差はあったとしても、だいたい、その辺りであろうと思われます。

出雲の千家宮司家は、八十三代、鹿島の物忌(ものいみ)(現在の宮司に当たる男性の神主より上位にあった女性シャーマン)を後見していた東家(とうけ)で、七十七代である由、むろん、少しの誤差を考慮に入れて、約紀元三百六十年頃が、やはり、奈良の三輪に大和政権を樹立した「国の大君」、崇神天皇の時代だと言えるのではないでしょうか。

ついでに、弓前史観では、崇神天皇の時代から三代か四代目にあたる応神天皇が、難波(大阪)に都を置いたと見ていますが、その頃を創祀とする住吉大社の津守(つもり)宮司家が八十代で、約四百年代に入ったばかりのころですから、崇神が大和入りして伊勢を始め五社の創建がはじまったのは、約三百六十年~四百年頃であろうとする仮説はここでも裏付けられると思っています。

もう一つ、崇神が三輪大和に東遷した時代を、四世紀半ば少し過ぎた頃とした根拠には、古墳造営の時期があります。

一般に、古墳は三世紀の古墳をもって始まりとしていますが、三世紀半ばには、全長二八二メートルにも及ぶ箸(はし)塚(づか)古墳(こふん)がつくられています。そして、大和に造られた前方後円墳の副葬品からは、すでに鉄器が見られるのです。

当時、鉄は大変な貴重品でした。この時点では、日本国内からは、鉄は、まだ、採れていないことが確認されています。

当時、鉄を保持出来たのは、南朝鮮に拠点を持ち、交易の出来た勢力だけです。

それができる勢力は、どうみても五島列島-博多を拠点に九州西南から、対馬海峡、朝鮮や中国をまたにかけて制海権を掌握して縦横に活躍していた、ここで言う倭人天族の勢力以外には考えられません。 

当時、人足の調達から築造技術者まで請け負えた勢力といえば、その天族しか考えられないのです。

そして、古墳の発注主であった大和三輪の豪族たちにも、徐々に変化が訪れます。

彼らは、既に述べたように、稲作やその種籾の貸付をはじめ、そのノウハウを、天族から学びおぼえて来ると、やがて、天族からどんどん物を仕入れては、それを、さらに、東国や東北に更に高く売り付けて、莫大な利益を上げ暴利をむさぼるようになります。

それはどんどんエスカレートしていくばかりです。

やればやるだけもうかるからです。

これを知った九州天族の大王(おおきみ)は、中津身を通して神意を伺った後で、遂に、本土上陸を決意するのです。

これが、後世、いわゆる、天孫降臨神話へと昇華されるその祖形であろうと思います。

天(海(あま))津神が国(陸)津神の大地に降り立つという発想です。

こうして、大和三輪への東遷が敢行されます。

そして九州を出発して安芸の広島、玉野の岡山、武庫の神戸をへて大和の三輪に辿りついた直後、こともあろうに、そこで再び天照大御神の神託が下るのです。

伊勢を始め主要な五社の神々を祀り、まずこの国を鎮めることが肝心であるとの神託が、ヒルメ大霊(おおひ)(天照大御神)からくだるのです。

天族が古墳造営を請け負っていた頃から、約一世紀半ばかり過ぎた四世紀半ばの頃のことです。

神託が下ったその件(くだり)に移ります。

「国の大君の姫神、神懸りありて、日留(ひる)芽(め)大霊(おおひ)の霊事(ひこと)詔(のり)あり、宣(の)りたまわく。」

「国の大君の姫神」とは、崇神天皇に従って三輪にやってきていた、歴史上にその名も高きおばの女性シャーマン、「ヤマトモモソヒメ」のことです。

そのモモソヒメに「日留(ひる)芽(め)大霊(おおひ)の霊事(ひこと)詔(のり)」、すなわち「オオヒルメ(記紀以後は天照大御神という)からのお告げ」が下ります。

それは、五社創建の神託でした。

ここで、「姫神」という存在について触れておきます。

姫神は、一般に、巫女(みこ)と同一視されていますが、厳密に言えば、同じとは言えません。

姫神は、進化した霊とも言うべき神を聞き分けることが出来るシャーマンであり、巫女は、進化した霊である高い神々とは同調できず、いわゆる「霊」だけを媒介するシャーマンを指します。

青森のイタコなどは、後者の例であり、古代この両者は、厳密に区別されていました。

現にここに降りた「日留(ひる)芽(め)大霊(おおひ)」とは、いうまでもなく「オオヒルメ」、すなわち後に天照大御神と呼ばれる神のことです。

では、天照大御神の「お告げ」の具体的内容とはなんであったか。

その第一は、「カムロミタカミムツ大霊(おおひ)のタヂカラの珠(たま)を、大八州(おおやしま)の東の果ての島一つだになき処に(鹿島・香取として)祀りて、日ごとの霊(ひ)垂力(たち)を、凝らしむべし」というものです。

既に、九州時代、委細心得の始めにカムロミタカミムツ大霊(おおひ)自らが、「カムロミタカミムツ大霊(おおひ)のタヂカラの左右の珠」を、天之児屋根の孫である中津(なかつ)・弓前(ゆま)の孫に祀らせたこととその為の心得が記されていました。

今度は、天照大御神の命として、その「タヂカラの珠(たま)を、大八州(おおやしま)の東の果ての島一つだになき処(ところ)に祀(まつ)って、日ごとの霊(ひ)垂力(たち)を凝らしむべし」との新たな命(めい)が降ったのです。

つまり、くりかえしますが、それまで、九州の大君のもとで祀っていた、「宇宙神であるタヂカラの左右の珠」を日の本の東路の果てに移して祀れ、というのです。

ついでに触れておきますと、ここで鹿島・香取の神に、「最も強い武神伝説」が、なぜ、生まれたのかが理解できます。

その理由は、その神の出所(でどころ)をみればわかるわけです。

この両神が、宇宙最大の力、カムロミタカミムツ大霊(おおひ)の地球レベルにおける力であるからです。

この地上においてこれ以上の力はありません。

記紀の神話が記(しる)すように、それゆえに日神、天照大御神がその力を最も頼みとしたのも当然ですし、タケミカヅチの力の強大さをわかりやすく示すために、国土神の大国主の子、タケミナカタが、勝負をすれば簡単に負けるという神話を生んだのです。

そういうことから、この神話は、もともと宇宙的な力と地上の力の差を表現したまでのことであって、古代史解釈によく見られる征服者天津神による被征服者国津神征服の正当化の為の神話であるといった、そういうたぐいの話ではないのです。

以上、鹿島の神についての数々の謎を探ってきてみてわかることは、記紀や古語拾遺や常陸風土記など従来の古典からだけでは、鹿島の神についての肝腎なところはまず分からないということです。

そのことが、まずわかります。

鹿島の神とは、強い、最高に強い、武神、武道、剣道の神、建国の大功神、安産の神、防人の神、交通安全の神、皇室と武家統領たちの崇敬の神、ということは知らされても、鹿島の神とはなんなのかという肝心なことは分かりません。

或いはまた、記紀が描写するところの「火の神、カグツチから成った剣の神」では、つまるところ、鹿島・香取の神とは、一体、どのような神なのかはよくわからないのではないでしょうか。

つまり「鹿島神とは剣の神格化である」といった従来の解読だけでは、到底この神の実体は見えてきません。


伊 勢 の 外 宮 と 内 宮 の 創 建



「神托」は続きます。

「美山(みま)の東なる山を越え、渡積(わたつ)美(み)(海)に入りたる処を、厳(いつ)斎(さ)の地(ち)となし、各地に祀れる、我が生母(うかの)珠(たま)を集めて、宮代(みやしろ)に祀るべし。更に、新たなる宮代を造りて、日毎、海より立ち昇る新日(あらひ)の力を凝らしむべし。」

これが委細心得が語る伊勢の外宮と内宮の元々の創建の由来です。

まず、「美山の東なる山を越え、渡積(わたつ)美(み)に入りたる処を、厳(いつ)斎(さ)の地(ち)となし」とは、今の奈良県の三輪から、東の伊賀の山を越えて行くと、伊勢湾にたどりつきます。

そこを、「厳(いつ)斎(さ)の地(ち)」とせよ、というのです。

厳(いつ)斎(さ)とは、厳(いつ、iutu,piutu,自然の意志の力を集める、ないし神を鎮める) と斎(さ、sa、澄みきった処)の意味で、全体で「神を鎮める聖なる処」の意味です。

これが、弥生語から解く「伊勢(いせ)」の語源です。

そこに、「各地に祀れる我が(わが)生母(うか)珠(のたま)を集めて、宮代に祀るべし」、というのです。

我が(わが)生母(うか)珠(のたま)」とは、「天照大御神自らの分身である、太陽エネルギーの地に至った、生命を育てる力そのもの」の意味であり、「生母(うか)珠(のたま)」とは、後の、「ウカの御珠」、ないし「豊ウケの大神」のことです。

ここでは、「我が(わが)生母(うか)珠(のたま)」の、「わが」という表現が、とりわけ重要です。

この表現によってはじめて天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)と豊受(とようけの)大神(おおかみ)、内宮(ないくう)と外宮(げくう)との関係が、はっきりと理解できるからです。

「カ、xau」および「ケxai」とは、弥生語で「食べ物」のことです。

喉の奥から発する喉音(こうおん)X(クァ)行の言葉です。

「変化」を意味するK(カ)行の[カ,ka]ないし[ケ、kai]とは全く無関係のX行の言葉です。

このK(カ)行とX(クァ)行の違いは、従来の国語学や神道学では解くことができません。

これらの言葉が使われていた古代の弥生語の知識がほとんど欠けているからです。

わかりようがないのです。

むろん、例えば「御饌(みけ)」の「ケ」の意味が、「食べ物」であることはわかっています。

それは前後の脈絡(みゃくらく)から推して誰でもわかります。

しかし、その「ケ」が何故、「食べ物」の意味になるのか、これを原理的、言語学的に解き明かすことは出来ていないのです。

古代弥生語でしか解けないからです。

喉音(こうおん)X(クァ)行の言葉が何故「食べ物」の意味になるか。

その理由はきわめて単純で合理的なものです。

誰にとっても「食べ物は」喉の奥から手が出るほど欲しいものだからです。

それで喉音(こうおん)X(クァ)という音になるのです。

さて、ここで重要なのは、委細心得には、ここで、はっきりと、外宮の豊受大神とは、単に天照大御神に御饌津(みけつ)ものを捧げる格下の神ではないと言っているのです。

太陽の光と熱エネルギーが、地に届き地に蓄えられた天照大御神自らの御分身・御分霊であることが述べられているのです。

ここのところは大変重要で、伊勢の外宮の御祭神が、天照大御神の御分霊そのものであるということが、はっきりと示されているのです。

それが、実に「我がウカノタマ」という大変重要な表現です。

外宮の代々の社家、度会氏(わたらいし)がこのことを知ったら、内宮より格下の神とされていた豊受の大神のためにどれほど喜んだでしょうか。

内宮にわざわざ対抗して外宮の神を天御中主神や国常立神にする必要などなかったからです。

九州での倭人天族時代の海洋生活おいては、彼らは天に輝く天照す太陽そのものを祀ってはいません。

そのまま太陽という荒御霊を拝めばよかったからです。

その代わり、その力が、地に及んだところの太陽の御分身は祀っていました。

それが、トヨウケ、またはウカの御魂(みたま)なのです。

ウカとは「生々化育する母体」の意味で、ウケはその変化形です。

         ウ         カ
         u         xau
      (生々化育する)    (母体)

  Xau(かぁ)は、「食べ物を与えるものの意で母」の意味になるのです。

しかし彼らが陸地に本拠地を移すことになったことから、改めて、荒御霊である「新日(あらひ)」をも祀ることになりました。

それが「更に、新たなる宮代を造りて、日毎、海より立ち昇る新日の力を凝らしむべし」です。

これが、後の伊勢の、やがて内宮(ないくう)となる宮代の祖形です。

このように、委細心得では、記紀の伝えることとは異なり、内宮より外宮の方が、実はその起源は古いと言っているのです。

天に輝く「新日(あらひ)」ではなく、「我がウカノタマ」のほうが神社としての成立は古いのです。

ここに「外宮先祭」の起源があります。

まずはじめに祀ったのが「トヨウケ」だったからです。

このことに関して、古事記は、次のように記しています。

垂(すい)仁(にん)天皇の御代に、内宮が祀られ、雄略(ゆうりゃく)天皇の時に、すなわち、約百年後に、外宮の神が丹波の元伊勢から勧請された、と。 
  

 こうした食い違いに関して、今ここで、あれこれ詳しく論ずるいとまはありませんが、ただ一つだけ申し上げておきたいことは、記紀の記す天照大御神や伊勢のことは、八世紀の初めの編纂の過程で再編成されているという事実は、近年の研究ですでに明らかになっています。

それは新生日本建国の再編成であったと言ってもよいと思います。

例えば、弥生語から言って明らかに太陽神であるオオヒルメムチから高天原を主宰する皇祖神として強調される天照大御神へと変貌していったこともその一つです。

このプロセスのなかで外宮よりも内宮を上位に置きたかったのでしょう。

記紀は、元々、「天皇の超越性」という理念確立の主旨の下に編纂された書である、という見解は、今や、学会でも通説であり、それはそれで正しいと思います。

ただしここで、誤解を避けるために強調しておきたいことがあります。

「天皇の超越性」や「皇祖神としての天照大御神」ということについてです。

この「天皇の超越性」や「皇祖神としての天照大御神」は、多くの唯物史観論的左翼の方々が言うような、人々をより支配しやすく統一しやすくするために設定された理念や統治機構ではないということです。

このことが自覚的に明確に言葉として打ち出されたのは確かに奈良時代あたりかもしれませんが、こうした信仰や理念ははるか大昔の倭人天族の時代からあったものだということです。

彼等にとって、「大君(天皇)は神にしませば」(柿本人麻呂)」であり、従って「天地の意志の具現そのもの」であり、古来、日本人は「大君、天皇」の中に人の持つ「美しいもの、真実なるもの、善なるものの象徴」を、また「人間のいのちの元」の一つの象徴を見ていたのです。

これを「国民はすべて大君の赤子(せきし)だ」という言い方をしてきたのです。当然、太陽の日(ひ)神(がみ)もその象徴的存在であることに変わりありません。

ともあれ、「宇宙の威大な力が流転する」という意味の弥生語「タカマパル」から、「高天原」という「八百万の神々の集う神界」が生まれます。

太陽神、オオヒルメムチ」から、「高天原を主宰する、皇祖神、天照大御神」へと変身もします。

あるいはトヨウケの神を祀る外宮の方の成立が天照大御神を祀る内宮よりも新しいとして、とにかく内宮より外宮を神格が一段低いように明確に打ち出したのも、全ては「天皇の超越性」という、当時の至上命令的理念に基づく神話の再編成からきている、と見てよいではないでしょうか。

この理念は、一つには、まず、なによりも白村江での大敗による日本国壊滅への危機意識から生まれたものと思われます。

次は

「吾が日ごと没するを望む、御渡(みわた)日乃(ひのい)の泊(とまり)を厳結(いつゆ)生(む)の戸として、その国(くに)珠(たま)を祀り、事代(ことしろ)主(ぬし)となして、天(あ)大成積(おなつ)の力を与うべし」

とありますが、ここの解読は、実は、なかなか難かしいところです。

まず、「吾が日ごと没するを望む、御渡(みわた)日乃(ひのい)の泊(とまり)を厳結生(いつゆむ)の戸として、国(くに)珠(たま)を祀り、事代(ことしろ)主(ぬし)となして」とあります。

光と熱のエネルギーであるヒルメムチの太陽がまさに西の海に没して行くに当り、そのエネルギーを、「厳結生(いつゆむ)の戸(と)として、その国(くに)珠(たま)を祀り」そのエネルギーを留めておくために、そこに、事代主の国珠の力を借りなさい、というのです。

事代主というのは、全国の土地それぞれにある国珠を仕切る、総元締めの神とされています。

ここで言っていることは、その事代主の力を借りれば、大地の力である大国主の力が与えられるのだ、というのです。

「天(あ)大成積(おなつ)の力を与うべし」とは、そのような意味です。

      ア   オ    ナ    ツ
      a    o    na    tu
    (ああ) (威大な)(大地の)(力の集まる所)

記紀に言う「オオナムチ」、すなわち、「大国主(おおくにぬし)」のことです。

「ヒルメムチのお告げで、大神が言われるには、わが日のエネルギーが、まさに、西に没せんとする時に、そのエネルギーを留めて置くために、アオナツの力が要るから、その仕切りを事代主にしてもらいなさい」
というのです。

そして、現に天照大御神は日(ひ)ノ(の)御崎(みさき)神社、大国主は出雲(いずも)大社、事代主は三保(みほ)神社に、それぞれ全てが、つながるように、島根県内におさめられ祀られています。

今も現に、この委細心得の記す(しる)とおりに、神々が祀られているのです。

ここに、もう一つの重要なこと、「出雲、イズモ」の語源が出てきました。

それは「厳結(いつゆ)生(む)、イツユム」です。

「厳結(いつゆ)生(む)、イツユム、聖なる力を生むところ」→イツム→イヅム→イズモ(出雲)です。

         厳          結生
       iutu,piutu        yumu
        (イツ)         (ユム)
    (自然の意志の神を集め)  (生むところ)

次は、「美山(みま)の地の国(くに)珠(たま)を、その地に祀れ。大物主の力を与うべし」という件(くだり)に移ります。

ここも、同じように説明がむずかしところです。

すでに三輪には土着の三輪一族が祀っていた国珠があります。

それが三輪山を御神体とする大神(おおみわ)神社(じんじゃ)の原始信仰です。

伝承されるように、大神(おおみわ)神社(じんじゃ)は、日本最古の神社といってよいところです。

委細心得によれば、出雲、伊勢、鹿島よりも古いのです。

そこに改めて、大国主の分身である事代主に次ぐ大物主を加えて、この「美山(みま)の地の大きな国珠として祀る」というのです。

「すべてはヒルメムチ(記紀における天照大御神)の命(めい)だ」と委細心得は記しています。

すなわち、

おそらく三輪山のふもとに祭壇を設け、国の大君にして神官でもあったハツクニスメラミコト、崇神みずからが、三輪の神に向かって、今や、三輪の美山威戸(みまかど)の「国の大君」として、あらためて、三輪の神を美山(みま)の国珠として祀り、これに大物主の力を加えて祀る旨の許可を大国主から得たことを告げたのでしょう。

あらためて大神(おおみわ)の神として祀る、というのです。

ここに、太古の昔から祀られていた大神(おおみわ)神社(じんじゃ)の土地の御祭神を、三輪の国珠であると同時に、天族は、改めて事代主に次ぐ大国主の分霊、「オオモノヌシ」として祀ることにしたのです。

大物主の正体は、大物主と事代主と大国主との関係がわかることによってよくわかります。

弥生語の解読力によってはじめてわかるといってよいでしょう。

大神(おおみわ)神社に祀られている大物主とは、記紀では、大国主の分身とされるが、弥生語から見てもその通りです。

つまり、大地には土や岩石などの事物があって、そこから生物が生まれてきます。

    大地 = 土台となる事物 ―――→ 生物の発生
   (大国主)   (事代主)       (大物主)

という関係です。

生物は、大地が持つ生命力である個々の土地の産土(うぶすな)の力によって生かされています。

産土(うぶすな)の力とは、例えば、土の持つ力です。

種を土に入れ土に抱かせれば、麦でも米でも、梅でも桜でも目をだし花を咲かせ実を結びます。

これが産土(うぶすな)の力です。

   
大国主と事代主ならびに大物主との関係をこのように示すことができるのは、ひとり弥生古語によってのみではないでしょうか。

「コト」と「モノ」の区別が根元的に理解できるからです。

ここのところの更なる詳しい説明は、「古事記と祓い言葉の謎を解く―伊勢・鹿島・香取・春日の起源――」(萩原継男著)というタイトルの私の本が叢文社(そうぶんしゃ)という出版社から今年(平成二十八年)の三月八日出版予定ですので、そちらをご参照ください。


最後は「さらに山人(やまと)の珠を美山(みま)の地に移し祀れ」で締めくくられています。

「山人の珠」とは、天族が九州時代に、日本国全体の国珠として祀っていた神のことです。

これをこの三輪の地に、倭の国(日本)全体の神として移し、改めて祀れという神託です。

だから、ここの神を「倭(やまと)大国(おおくに)魂(たまの)神(かみ)」というのです。

これが、大和(おおやまと)神社の起源です。

委細心得では、崇神天皇が、三百六十年の頃に大和の三輪に入ってから、ヤマトモモソヒメが、ヒルメ大霊(おおひ)のお告げをうけて、大和神社が創建された、と言っているのです。

だが、日本書記によれば、倭(やまと)大国(おおくに)魂(たまの)神(かみ)は、天照大御神とともに皇居内に祀られていて、これを畏(おそ)れ多いとして、この神を皇女、淳名城入姫(ぬなきいりひめ)に祀らせたが、この姫の体調がすぐれないため、市(いち)磯(しの)長尾市(ながおち)を祭主として鎮座したということになっています。

だが、書紀が言う「畏れ多いから外に出して祀った」という言い分は、何とも理解しがたい話です。

何故なら、記紀によれば、そもそも、天皇が同じ御殿、同じ床に同居するということは、天照大御神の神勅(神の命)であったはずです。

こうした矛盾も平気で併記するのが日本書記の特徴です。

これも「後(のちに)勘校者(かんがえむひと)、知之也(しらむ)」のうちなのでしょうか。

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