天児屋根の伝言1
天児屋根の伝言1
天児屋根の伝言1は、天児屋根がメッセージした宇宙霊理の書、「神文」(弥生語という古代語で書かれている)、それと、これを伝えた弓前(ゆま)と呼ばれた人々による日本と神社の起源を記した「委細心得」についてのお話です。
これを総称して「弓前文書」と言っています。
それは藤原九条家に秘匿されていた、文字通り前代未聞の古文書です。
倭人天族と大和朝廷との関係
このホームページを読まれている方であるなら、天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)や大国主(おおくにぬしの)神(かみ)の名はよくご存知だと思います。
しかし、この天照大御神や大国主神という名称は、今から約千三百年くらい前にできた言葉である、ということについてはあまり深く考えられたことはなかったと思います。
では奈良以前はなんと呼ばれていたのでしょうか。
古事記や日本書紀をすこし読み込んだ方であれば、天照大御神はオオヒルメムチ、大国主神はオオナムチと呼ばれていたことをごそんじだと思います。
そうです。
このオオヒルメムチ、オオナムチという、今では分かりずらい言葉こそ、ここで言う大和言葉以前の倭言葉(弥生語)なのです。
この倭言葉を使っていた人々をここでは「倭人天族(わじんあまぞく)」と呼んでいます。
有名な「魏志倭人伝」という中国の歴史書のなかに
「倭人は、魏(ぎ)の帯方(たいほう)郡(ぐん)(現在のソウルあたり)から海を隔てた東南の位置に住んでいる。島の中に国ができている。」
と書いてあるその倭人です。
彼らが使っていた言葉が、倭(ヤマト)言葉(ことば)です。
奈良時代に、一応出来上がる後の大和言葉のなかでも最も重要な言葉の一つです。
大和政権の中枢をなす人々が使っていた言葉だからです。
従って、古神道を受け継いだ彼らの神社神道の主要な言葉は、ここで弥生語と言っている倭言葉です。
この倭人天族が、紀元前五百年あたりの弥生時代から日本の歴史上の表舞台に登場し、日本全体をリードする一族となっていきます。
何故かと言いますと、彼らが当時の革命的な産業といってよい稲と鉄を日本の国にもたらす存在であったからです。
彼等は、もともとの古代からの日本人でありそのルーツは中国でも朝鮮でもありません。
これがわかるのは、やはりその言葉からです。
文章の構成は、確かにウラル・アルタイ語に属していて朝鮮語と同じですが、それは、奈良時代に日本語を文字化をするのにたずさわった人々が朝鮮からきた渡来人だったというにすぎません。
彼らに、時の大和朝廷が依頼し連れてきたのです。
ですから、言葉自体はあくまで弥生語であり、縄文語と共に生粋の日本語でした。
その大和朝廷を奈良に樹立した倭人は、しかし、もともと内陸にいた縄文人とDNAが同じであることも確認されており、もともとは同族なのです。
では何故、弥生人と内陸の縄文人と言葉がそんなに違ってしまったのでしょう。
それは約1万二、三千年前の氷河期の解氷以後、それぞれ一方は海洋民として、また一方は内陸の山岳民として、何千年にもわたってお互いに隔絶した別々の生活圏をもち、言語圏もそれぞれ独自の発達をとげていったからです。
同じ日本列島の中でも、その昔は、青森弁と鹿児島弁では、意思の疎通ができないほど違っています。
それと同じです。
その倭人の活躍が、弥生時代頃からはじまり、ことに稲作などで弥生時代をもたらしたところから、彼らの使っていた言葉を、仮に、ここでは「弥生語」とか「倭言葉」とかといっています。
倭人天族は、「魏志倭人伝」にあるように、紀元一世紀前後ころには、「魏の帯方郡から海を隔てた東南の位置に住んでいたのです。
「倭人伝」には、「山(さん)島(とう)に依り(よ)て国邑(こくゆう)を為る(つく)」と書かれています。
島のなかに国ができていたというのです。
実際、大君は、その近辺で最も大きく、潮流の流れの合流点近くである五島列島に拠点を置いていたようです。
さらに、博多とその近隣を拠点に、中国山東半島の東岸、朝鮮南部、瀬戸内海、難波(なにわ)(後の大阪)、三輪(後の大和)などを行き来しながら、一大商業貿易を展開していました。
それから約四世紀位たった、大体ですが、三百六十年頃に、この倭人天族は、奈良の大和に国をひらき、いわゆる大和朝廷を打ち立てます。
この年代の設定は、記紀の約二千六百七十年前とは異なっています。
これは、この倭人天族のなかで大王の祭祀職として仕えていた、中津・弓前一族に伝えられたアメノコヤからのメッセージの神文(かみふみ)につけられていた「委細心得」という歴史書に書かれているのです。
むろん、一つの仮説としておきましょう。
この神文と日本の古代の歴史をあわせて、ここでは「弓前(ゆま)文書(もんじょ)」といっています。
「書き言葉」として文書となったのは、それから三世紀もあとの飛鳥・奈良時代です。
弓前一族の後裔、弓前値名(ゆまあてな)という人物が、それまで一族が口伝えで受け継いできたアメノコヤネからの霊理の神文を、当時の、新しい日本語が生まれつつあった奈良時代のまさにそんな時代に、万葉仮名のような漢字を使って、伝来のそのメッセージを文字化していったのです。
だいたい七世紀初頭のころです。
さて、倭人天族は、やがて海洋での活動を通し稲作だけではなく、鉄の文化をも席巻するようになり、この部族は大君(後の天皇)の下に大いに栄えていました。
そしてかれら天族にとっての最大のお得意先は、当時、内陸のなかで最も栄えていた三輪(大和)の三輪一族でした。
そこは、三世紀の頃には、すでに後の大神神社として知られる三輪一族の祀る日本一古い社(やしろ)もありました。
この近隣の古墳築造を一手に引き受けていたのも、もっぱら大陸からの技術や人足調達にも通じていたこの天族でした。
ところが、やがて、その三輪一族は天族から稲、鉄を大量に仕入れるのはよいのですが、これを秘かに関東や東北に流しては莫大な利益をむさぼるようになります。
そうした状況の中で、いろんな摩擦やトラブルが起きます。
時代は約三百六十年頃。
五島列島の天(あま)威(か)戸(ど)の時の大君は、「アオタオチロワケの大君」、歴史上「景行天皇」として知られる大君です。
この史観は、あくまで「弓前文書」の中の歴史書「委細心得」の記述からの仮説です。
その天(あま)威(か)戸(ど)の大君、アオタオチロワケの大君は、三輪一族のことを聞き激怒しましたが、まずは中津・弓前の輩(やから)を呼び、どうしたらよいか、攻めてもよいかを神々に問わせます。
中津・弓前一族は、倭人天族のなかで大王側近のの祭祀職として仕えていたからです。
その答えは「然り」、上陸してその地を治めよ、ということであった。
こうして、倭人天族はその打倒と征服を敢行します。
結論から言えば、こうして、後世、崇神天皇として知られるミマキイリヒコイニエが三輪の地に入り三輪一族を制圧し、そこに大和政権がはじめて樹立されるのです。
だからこそ、記紀も崇神天皇を(ハツクニシラススメラミコト)と記(しる)さざるをえなかったのです。
これが、実は、記紀によって「神武東征」とされた物語の祖形なのですが、実際には、この頃、大和は本拠地である九州を遠く離れていたので、対外政策の為にも二王朝制をとっていました。
九州にはアオタオチロワケ(景行)という大君、大和にはミマキイリヒコイニエ(崇神)という大君がいたということになります。
前者を「天の大君」、後者を「国の大君」と言っていました。